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三浦義村の生涯と北条義時との関わり合いをご紹介します

鶴岡八幡宮
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三浦義村とは

三浦義村(みうらよしむら、1168年~1239年)は、鎌倉幕府の初期に活躍した有力御家人です。

父は三浦義澄(みうらよしずみ、1127年~1200年)。

三浦義澄は、いわゆる「鎌倉殿の13人」の一人に数えられる人物ですが、鎌倉殿の13人といわれる合議制の機関ができた翌1200年に病没しています。

三浦義村の名前は、それ以前にも吾妻鏡という史料に見ることができます。しかし、特に目立つのは、鎌倉殿の13人ができた1199年以降。

この記事では、三浦義村の生涯をわかりやすくお伝えします。

また、三浦義村の生涯を見ていくうえで、大きなつながりを持つのが北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)です。

そこで、三浦義村と北条義時の関わり合いについても触れていきたいと思います。

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梶原景時の乱から承久の乱まで

鎌倉殿の13人は実質的には鎌倉幕府内部の権力闘争の場で、さまざまな変事が起こっています。

三浦義村は、その多くに関わっていたと言われています。

ここでは時系列で、梶原景時の乱から承久の乱までの様々な事件と、三浦義村の関わり合いを簡単にご紹介していきます。

梶原景時の乱

鎌倉殿の13人ができた当時、その中でも大きな力を持っていたのが梶原景時(かじわらかげとき、1140年~1200年)です。

梶原景時は、源頼朝の命を助け、平家討伐に大きな力を発揮し、大きな信任を得ていました。

そのため、源頼朝死後に創設された鎌倉殿の13人の中でも大きな存在でしたが、一方では敵も多かったといわれています。

1199年、梶原景時は同じ御家人の結城朝光(ゆうきともみつ、1168年~1254年)を讒訴します。

困り果てた結城朝光は三浦義村に相談。

三浦義村は、和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)や安達盛長(あだちもりなが、1135年~1200年)と語らって、66人の御家人が連署した梶原景時を弾劾する文書を作成。

これが鎌倉幕府2代将軍源頼家に届くことで梶原景時は失脚。1200年、梶原景時は自害をしています。

梶原景時の乱の際の北条義時の関わり合いは定かではありません。

北条義時は父の北条時政とともに鎌倉殿の13人に名を連ねています。また、北条義時はこの時点で37歳の頃。

しかし、北条氏内で権力を振るっていたのは父の北条時政で、壮年期にあった北条義時は、まだ父の影に隠れていた存在だったのかもしれません。

 
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畠山重忠の乱

畠山重忠(はたけやましげただ、1164年~1205年)は、源頼朝挙兵時には平氏方であったものの、後に臣従。

鎌倉殿の13人に名は連ねていませんが、多くの武将の信望を集める有力御家人の一人でした。

ある時、畠山重忠の嫡子畠山重保(はたけやましげやす、不詳~1205年)と、御家人の平賀朝雅(ひらがともまさ、不詳~1205年)が諍いを起こします。

平賀朝雅の妻の母は牧の方(生没年不詳)。牧の方は北条時政の後妻に入った女性で、北条時政に溺愛されていました。

諍いの件を知った牧の方は、北条時政に畠山重忠が謀反の企てをしていることを訴えます。当初は取り合わなかった北条時政も、最後は畠山重忠を討つことを決断します。

1205年、まず討たれたのは畠山重保です。畠山重保は鎌倉の由比ヶ浜で最期を迎えますが、この命を下したのが三浦義村です。

その後、本拠地としていた武蔵国から鎌倉に向かう畠山重忠も二俣川で討たれます。

しかし、この事件には後日談があります。

畠山重忠が亡くなった後に、謀反は事実無根であったことが判明します。

そこで、畠山重忠を死に追いやった首謀者とみなされた稲毛重成父子や榛谷重朝父子も討たれてしまいますが、これを罰したのが三浦義村と言われています。

では、畠山重忠の乱に際して北条義時はどのような動きを見せていたのでしょうか。

梶原景時の乱以降、北条義時は父の北条時政に協力して他の御家人との権力闘争に力を振るうようになります。

しかし、北条時政と北条義時の関係は、畠山重忠の乱を契機に大きく変質します。

畠山重忠の乱のきっかけは、北条時政の後妻である牧の方によるものです。

そもそも、北条時政の先妻の子である北条政子や北条義時と、牧の方は疎遠と言われていました。

また畠山重忠は信望篤く、謀反などを起こす人物だとは考えられていませんでした。

いろいろな説はありますが、北条義時は畠山重忠を擁護していたと考えられています。

畠山重忠の乱で北条時政の意を汲んで行動したのが三浦義村。

一方、畠山重忠に謀反の意思などないと感じていた北条義時。

この時点ではまだ、2人の間に密接な関係はうかがえません。

 
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北条時政追放

北条時政の継室は牧の方で、2人の間に生まれたのが北条政範(ほうじょうまさのり、1189年~1204年)です。

北条義時が兄、北条政範が弟という異母兄弟ですが、母の地位は牧の方が高かったことから、北条時政の後継は北条政範とされていました。

しかし北条政範は15歳の頃に病没。

畠山重忠の乱の直後、牧の方は夫の北条時政に働きかけ、第3代将軍源実朝の暗殺、後継に自らの娘婿の平賀朝雅を将軍につけようと画策します。

しかし、この企ては事前に北条政子や北条義時に知られてしまい、北条義時に協力した三浦義村が北条義時や牧の方を伊豆国に追放する役割を担います。

このころから、三浦義村と北条義時の密接な関係がうかがい知れるようになります。

 
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和田義盛の乱

源頼朝挙兵時から源氏に従い、鎌倉殿の13人の中でも有力御家人の一人として名前を連ねていたのが和田義盛(わだよしもり、1147年~1213年)です。

1213年、現在の長野県上田市を本拠とする武将泉親衡(いずみちかひら、生没年不詳)の企てが露見します。

泉親衡は、源頼家の子を擁立して、北条時政に代わり2代目執権となっていた北条義時打倒を画策。

企てそのものは、実際の行動を起こす前に露見し、泉親衡は逃亡します。

しかし、この企てに加わった疑いをもたれたのが、和田義盛の子の和田義直(わだよしなお、1177年~1213年)、和田義重(不詳~1213年)、そして甥の和田胤長(わだたねなが、1183年~1213年)です。

子の和田義直と和田義重は許されたものの、関与が深いとされた和田胤長は流罪、鎌倉にあった邸も没収されます。

この措置を行ったのが北条義時ということで、和田義盛と北条義時の関係は一気に悪化。

今度は和田義盛が北条義時打倒を企てます。

和田義盛は味方を集めるため有力御家人に声を掛け、その中には三浦義村もいました。

三浦義村は和田義盛に呼応し、和田義盛も三浦義村を信頼していたところですが、三浦義村は和田義盛の企てを北条義時に伝えてしまいます。

事が露見し追いつめられた和田義盛は挙兵。鎌倉の地が戦いの場となり、和田義盛は討ち取られます。

 
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源実朝暗殺

1219年、鎌倉幕府第3代将軍源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)が、公卿(くぎょう、1200年~1219年)に暗殺される事件が起こります。

公卿は第2代将軍源頼家の子ですが、源頼家が不慮の死を遂げた後の将軍の座は、源頼家の弟である源実朝が就いていました。

公卿から見れば叔父の源実朝は、父源頼家から将軍の座を奪った人物。

そこで起こったのが源実朝暗殺です。

源実朝暗殺に成功した公卿は、三浦義村に「私こそ将軍なので、その準備をするように。」という書状を出します。

三浦義村は公卿に「迎えの使者を出します。」と呼応の振りをみせますが、実際に差し向けたのは討手。

討手を差し向けられた公卿は、源実朝を暗殺したその日に生涯を閉じています。

この事件の背景は、はっきりとしてません。

三浦義村が公卿をそそのかして、源実朝と北条義時を併せて討とうとした。逆にそそのかしたのは三浦義村ではなく北条義時だった。

あるいは源実朝を葬ろうとして、三浦義村と北条義時が共同して公卿を源実朝暗殺に導いた。

様々な説があります。

ただ、源実朝暗殺を知った北条義時が即座に公卿討伐を評議で決定し、実際に実行したのが三浦義村であったことを考えると、三浦義村と北条義時に何らかの意思疎通があったのではないかとも考えられます。

 
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承久の乱

1221年、承久の乱が起こります。

承久の乱は、鎌倉幕府を倒すため後鳥羽上皇(ごとばじょうこう、1180年~1239年)が起こしたものです。

このとき、三浦義村の弟の三浦胤義(みうらたねよし、1185年~1221年)は、京都で検非違使の職に就いていましたが、後白河法皇の考えに共鳴し鎌倉の三浦義村に決起を促す書状を発します。

書状を受け取った三浦義村は、すぐさま北条義時に知らせ、軍議の結果、京都への出兵が決まると三浦義村は大将軍の一人として京都に向かいます。

承久の乱そのものは、あっという間に鎌倉方の勝利に終わります。

承久の乱後、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は配流。新たに後堀河天皇を擁立しますが、この果断な処理の中心になったのが三浦義村です。

三浦義村の死

1224年、北条義時は病死します。

1225年には、北条義時の姉の北条政子も亡くなります。

北条義時の後、執権となったのは北条泰時(ほうじょうやすとき、1183年~1242年)で、新たな執権の元、評定衆が設置されます。

評定衆は幕府の機関の一つで、合議制で政治を行うためのもので、三浦義村はそこに名を連ねます。

また、このときの序列は北条氏に次ぐものでした。

三浦義村はその後も幕府の中枢で活躍しますが、1239年、病により生涯を閉じています。

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まとめ

この記事では三浦義村の生涯と、三浦義村と北条義時の関わり合いについてお伝えしてきました。

源頼朝死後、大きな事件が数多く起こり、将軍や有力御家人が多くが歴史の表舞台から姿を消しています。

その中にあって生き残ったのが三浦義村や北条義時です。

ただ、三浦義村の生涯を見ていくと、その中には多くの裏切りが見えるのも事実で、同時代の人も不可解な人物と三浦義村を評しています。

しかし類まれなる権謀術策の能力のおかげで、北条氏に次ぐ立場で生き延びたのも事実。

三浦義村と北条義時については、常に緊張関係にあったという説。

あるいは、三浦義村と北条義時は盟友のような関係だったという説もあります。

果たして、どちらだったのでしょうか。

 
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