スポンサーリンク
木曽義高・大姫とは
この記事では、木曽義高と大姫の最期を迎えるまでをわかりやすくご案内します。まず、木曽義高と大姫はどのような人物だったのでしょうか。
木曽義高とは
木曽義高(きそよしたか、1173年~1184年)は、木曽義仲(きそよしなか、1154年~1184年)の嫡男です。木曽義高は河内源氏の一族で、源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)とは従兄弟になります。
大姫とは
大姫(おおひめ、1178年~1197年)は、源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)と、北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)の長女として誕生しています。源頼朝と北条政子は駆け落ちのような形で結ばれましたが、大姫が生まれたのを契機に結婚が認められたと言われています。
木曽義高と大姫が出会うまで
栄華を誇っていた平家も、1181年に平清盛が亡くなる前後から衰退の道を辿ります。1180年には後白河天皇の第3皇子の以仁王(もちひとおう、1151年~1180年)が平家追討の令旨を発します。
また、源義仲の叔父である源行家(みなもとのゆきいえ、1142年頃~1186年)は、全国の源氏に挙兵を呼びかけます。
これに呼応したのが木曽義仲の兄である源仲家(みなもとのなかいえ)ですが、同年5月には討死をしています。
1183年になると木曽義仲は挙兵し、すでに亡くなっていた以仁王の子北陸宮(ほくろくのみや、1165年~1230年)を擁して挙兵、信濃を中心に勢力を拡大します。
またこの頃、源義広(みなもとのよしひろ、不詳~1184年)と源行家が木曽義仲を頼ってきます。
源義広は源頼朝と敵対した人物で、源行家は源頼朝に追放されています。
木曽義仲と源頼朝は同じ源氏であっても基本的には全く独立した動きをしています。しかし、源義広と源行家を庇護したことで、木曽義仲と源頼朝の関係は一気に悪化します。
そこで武力衝突を避けるため両者の間で和議が行われ、この時、木曽義仲の嫡男である木曽義高が源頼朝の本拠地である鎌倉に赴きます。
形式的には木曽義仲の嫡男である木曽義高が、源頼朝の長女である大姫と婚姻して婿入りするというものですが、実質的には人質です。
このとき、木曽義高は11歳の頃、大姫6歳の頃と思われます。
スポンサーリンク
木曽義高の最期
いかに早熟な時代とはいえ、11歳と6歳では実質的な夫婦にはなり得ません。しかし、木曽義高と大姫の仲は睦まじかったと考えられています。木曽義高を人質として差し出したものの木曽義仲の動きは俊敏でした。
1183年7月、木曽義仲は平家を京から追い出し、自らが入京をします。
平家がいなくなったことはよかったものの、期待をしていた木曽義仲の兵は京の地で乱暴狼藉を行います。
あっという間に民心は離れ、朝廷との様々な交渉にも失敗。後白河法皇は、源頼朝に宣下を下します。
そこで源頼朝は、弟の源範頼(みなもとののりより、1150年~1193年)と源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)を木曽義仲追討軍として派遣。
1184年1月に木曽義仲は宇治川の戦いで敗れ、その後の粟津の戦いで討死します。
源頼朝の敵であった木曽義仲が亡くなったことで、木曽義高の立場は悪化します。
まず、人質の価値がなくなったこと。また生かしておくと後顧の憂いが発生することもあります。
源頼朝は木曽義高を討つことを画策しますが、いち早く気がついた大姫は木曽義高を逃がします。
しかし、そのことはすぐに源頼朝の知るところとなり、木曽義高追討の兵を派遣。1184年6月、木曽義高は武蔵国の入間川で藤内光澄に討たれ11歳の短い生涯を閉じています。
スポンサーリンク
大姫の最期
木曽義高の死は伏せられていましたが、すぐに大姫の知るところとなります。大姫は嘆き悲しみ病床に臥せ衰弱していきます。
母の北条政子は大姫が寝込んだのは、木曽義高を討ちとった藤内光澄の非によるものと憤り、藤内光澄は討たれてしまいます。
しかし大姫の気持ちが晴れることはなく、深く傷つき寝込む日も多く、周囲が木曽義高の追善供養など様々なことを行っても心が恢復することはなかったといわれています。
1194年、一条高能が京から鎌倉へ下ってきます。
一条高能は源頼朝の甥で、大姫も17歳。
木曽義高が亡くなって約10年が経過しており、源頼朝は2人の縁談を進めようとしますが、大姫は厳しい態度で拒絶します。
1195年になると源頼朝と北条政子は、嫡男の源頼家と大姫を伴って京に向かいます。目的の一つは大姫の入内。しかし、ことがうまく運ぶことはなく、大姫の病状も悪化。
1197年、大姫はこの世を去ります。
さいごに
2人の出会いは、木曽義高11歳の頃、大姫6歳の頃で、現代でいえば2人とも子供です。また2人が接点を持ったのは、ほんの数か月程度であったと思われます。
政略結婚を目的に鎌倉へ赴いた木曽義高の場合、利用価値が亡くなった時点で生涯を閉じたのは、当時としては仕方なかったのかもしれません。
しかし、7歳の頃に婚約者を失った大姫が心の闇を抱え20歳の短い命を閉じたのは、時代とはいえ痛ましいものがあります。
■合わせて読みたい
スポンサーリンク
スポンサーリンク