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松永久秀とは
この記事では、最期は爆死を遂げたと言われる、松永久秀(1508年~1577年)の生涯について、ご紹介をしていきます。ところで、松永久秀は戦国時代に生きた武将の中でも、とりわけ異彩を放っています。
前半生の生き方などが謎に包まれていて、後半生は様々な策略を使ってのし上がっていったこと。
時の権力者である織田信長に反旗を翻し、最期は城にこもって爆死したという数奇な運命から、松永久秀は戦国三大梟雄の一人に数えられています。
松永久秀は、どのような生涯を送っていったのでしょうか。松永久秀は、爆死で生涯を閉じたのでしょうか。
戦国三大梟雄とは
戦国三大梟雄に明確な定義はありません。そのため、戦国三大梟雄といいながら、候補は4人います。
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松永久秀の生涯1 織田信長と出会うまで
松永久秀の生年はわかっていますが、出身地については諸説あって、はっきりとしていません。松永久秀が世に出てくるのは25歳の頃。
当時、守護大名の細川氏の守護代として大きな勢力を持っていた、三好家嫡男の三好長慶(みよしながよし、1522年~1564年)に仕えるようになります。
もっとも、この時点での三好長慶の年齢は10歳か11歳の少年。また、松永久秀の役割は右筆。
右筆とは書記のような役割なので、松永久秀はある程度の知識を持っていたことはうかがえるものの、武将としての力量がどの程度のものであったかはわかりません。
松永久秀は三好家の中で出世し、1540年の頃には奉行の職。さらに1542年には、武将として活動した記録も見られるようになります。
この時点での松永久秀は34歳の頃。武将としては遅咲きであったことがわかります。
その後、主の三好長慶の勢力は細川氏をしのぐようになり、それに伴って松永久秀の地位も上がります。
家宰(後の家老のような役割)になった松永久秀は、三好氏の勢力伸長のため、各地の戦に臨みます。
三好氏の主は細川氏、細川氏の主は将軍です。
当時の室町幕府の将軍は第13代の足利義輝ですが、実質的に力を持たず、周囲の勢力バランスの中で存在してました。
そのため、三好長慶と足利義輝も、時には味方、時には敵と、関係がめまぐるしく変わっています。
1561年の頃、三好長慶と足利義輝の関係は良い状態にありましたが、この時、三好長慶の家臣である松永久秀は従四位下に叙任されます。
従四位下は朝廷が任命する官職ですが、室町幕府の口添えがあってのもの。
三好長慶と足利義輝の関係が良かったことがうかがえる出来事ですが、松永久秀が得た官職は、三好長慶とその嫡男である三好義興と同等。
三好長慶と松永久秀は、三好家の中では主従の関係ですが、幕府はこの2人を同格とみていたことがわかります。
松永久秀は、この段階で大きな実力をもっていたようです。
1564年、三好長慶は病死します。
嫡男の三好義興もすでに亡くなっていたため、三好家は三好長慶の甥である三好義継(みよしよしつぐ、1549年~1573年)が当主になります。
また三好義継が年少であったため、三好家は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)や松永久秀が中心となり、運営されることになります。
1565年になると、三好義継と三好三人衆、そして松永久秀の子の松永久通が足利義輝を暗殺し、第14代将軍として足利義栄(あしかがよしひで、1538年~1568年)を擁立します。
後世、松永久秀が将軍を暗殺したように言われていますが、松永久秀が暗殺に積極的に加わったという記述は見当たりません。
さらに、松永久秀と三好三人衆は関係が良好とは言えず、この段階での松永久秀は追い詰められた状態にありました。
この状況を一変させるのが織田信長です。
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松永久秀の生涯2 織田信長と敵対し最期を迎えるまで
1568年、織田信長が京都に上洛し、足利義昭を第15代将軍に擁立するとともに、足利義栄や三好三人衆を追放します。
松永久秀は終始織田信長に協力し、松永久秀と織田信長は同盟関係になります。
しかし、松永久秀と織田信長の蜜月は長くは続きません。
足利義昭は第15代将軍と言いながらも織田信長の傀儡にすぎず、何の実権も与えられませんでした。
境遇に不満を感じた足利義昭は有力大名に書状を出し、次第に織田信長包囲網を作り上げていきます。
1572年になると、松永久秀も足利義昭の呼びかけで織田信長包囲網に加わります。
しかし、1573年に織田信長に敗れた足利義昭が追放され、三好家の当主である三好義継も敗死。
松永久秀は降伏をします。
もっとも、松永久秀は所領を没収されたものの、命は助けられています。
1577年、今度は本願寺を中心として、上杉謙信や毛利輝元が織田信長包囲網を形成していきます。
しばらくおとなしくしていた松永久秀はこれに呼応して、居城の信貴山城に籠ります。
同年、織田信長の嫡男である織田信忠に攻め立てられ、信貴山城の天守に火をかけ自害。
松永久秀は、数奇な人生の幕を閉じます。
織田信長と松永久秀の関係
織田信長は、松永久秀を重用しました。では、その理由はどのようなものだったのでしょうか。まず考えられるのが、松永久秀が幕府の状況を知悉していたことです。
最初は三好氏に仕えていた松永久秀ですが、その才覚でどんどんと上り詰め、幕府の内情をよく知る立場になっていました。
また、当時の京を中心に活躍していた有力武将の情報も持っていました。
足利義昭を擁して上洛したといっても、織田信長が京の状況をしっかりと理解していたわけではありません。
自らに近づいてくる松永久秀は、織田信長にとって貴重な存在であったものと思われます。
次に考えられるのが、松永久秀の武将としての有能さです。
最初は右筆であった松永久秀ですが、次第に戦いに参加するようになり、三好家の中で重きを置かれるようになっています。
これは松永久秀の武将としての有能さを示すものですが、松永久秀には軍事能力や策略を巡らせる能力、さらには築城能力も卓越したものがあったと言われています。
無能を憎み有能を愛する織田信長にとって、松永久秀は使える人物に映ったのかもしれません。
第3に考えられるのは茶道に対する知識の深さです。
松永久秀は茶の湯に傾倒して、たくさんの茶器を所有していました。
一方の織田信長も、茶道に深い興味を持っていました。
松永久秀は織田信長と同盟関係を結ぶ時、所有していた九十九髪茄子(つくもかみなす)を差し出します。
九十九髪茄子は、第3代将軍足利義満が所有していた茶器で名品と謳われていました。
松永久秀はこの茶器を購入し保有していましたが、織田信長に献上しています。
また、松永久秀が最期を迎えるとき、織田方は助命をする代わりに古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも、別名「平蜘蛛釜」)を差し出すよう求めています。
松永久秀はこれを断り、平蜘蛛釜に爆薬を入れて爆死したともいわれています。
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松永久秀は爆死をしたの
松永久秀は爆死で最期を迎えた。これは昔より言われていることで、様々な小説でも描かれています。松永久秀は戦国三大梟雄の一人。爆死は松永久秀に似合った最期といえるのかもしれません。
ただし、松永久秀は爆死で最期を迎えたというのは史実ではないと考えられています。
松永久秀は信貴山城の天守に籠り自害をした。信貴山城の天守は燃え落ちた。
ここまでは確かなようです。
しかし、戦いが終わった後、織田方は松永久秀が亡くなった後の姿を確認しています。
爆死だとしたら、そうした確認は難しかったのではないでしょうか。
また、松永久秀は平蜘蛛釜に火薬を入れて爆死したとも伝えられています。
しかし、これについても終戦後に織田方が破片を拾い集め復元したとも言われてます。
爆薬で破壊したのであれば、もっと粉々になっていたはず。
こんなことから、松永久秀は爆死で最期を迎えたと伝えられていますが、史実ではなく創作の可能性が高いと考えられています。
さいごに 松永久秀は戦国三大梟雄だったの
松永久秀は、戦国三大梟雄の一人と伝えられています。梟雄とは、簡単に言えば、残忍な悪者というような意味があります。
特に戦国時代の梟雄には主君を倒してのし上がった、下克上の代表的な人物が取り上げられています。
では、松永久秀は本当に戦国三大梟雄だったのでしょうか。
のし上がっていくためには、戦国時代と言えども、様々な策略を巡らせなければいけません。
そうした意味で、松永久秀は善良な武将であったとはいえないかもしれません。
ただ、松永久秀は主君である三好長慶を裏切ることはしていません。
また、三好長慶が亡くなった後、三好三人衆と敵対することはあっても、三好長慶の後継となった三好義継とは敵対していません。
さらに、足利義輝暗殺時の企てに松永久秀は参画をしていません。
このようなことを考えると、松永久秀は狡猾な策略家であった可能性は否定できないまでも、戦国三大梟雄と言われるほどの人物であったとはいえない。
あくまでも個人的な見解ですが、そのように思っています。
なお余談ですが、後世、徳川家康の懐刀と言われた本多正信は、一時期、徳川家康を離れ松永久秀の元に身を寄せています。
本多正信は、徳川家康の後半生において謀臣として活躍した武将ですが、松永久秀にどれほとせの薫陶を受けていたのでしょうか。
記録はないので真相はわからないながらも、とても興味があります。
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