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はじめに
この記事では、天一坊事件(てんいちぼうじけん)のあらましについてご案内します。天一坊事件は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代の江戸南町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の活躍ぶりを記した「大岡政談」の一つとして知られています。
大岡政談には、大岡越前守が解決した多くの事件が記載されています。
もっとも、大岡政談は大岡越前守が亡くなった後に書かれたものであり、そのほとんどが創作であるともいわれています。
天一坊事件は、大岡政談の中で大岡越前守が解決したように記されたことで、今でも多くの人の記憶に残っています。
確かにこの時代に天一坊事件に類似した事件はありました。しかし、実際のところ大岡越前守はほとんど又はまったく関与していないようです。
では、世に知られた天一坊事件とはどのような事件だったのでしょうか。
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天一坊事件(源氏天一坊改行事件)のあらまし
天一坊事件は、源氏天一坊改行事件に基づく創作と言われています。源氏天一坊改行事件とは、どのようなできごとだったのでしょうか。
源氏天一坊改行は人名で、元禄12年(1699年)6月、紀州国に生まれたと伝えられています。
修験者となった源氏天一坊改行は、第8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の御落胤と称して、大名に取り立てられると吹聴します。
そして、将来の見返りを期待する町人から献金を受けたり、仕官を求める浪人から金品を受け取るなど詐欺のような所業を繰り返します。
多くの人をだましていた源氏天一坊改行ですが、その行動を不審に思った浪人の本多儀左衛門の通報により捕らえられます。
この時、捕縛をしたのは関東郡代の伊奈半左衛門忠逵。
品川で捕らえられた源氏天一坊改行は、評定所で勘定奉行の稲生正武により取り調べを受け、ご落胤ではないと判断をされます。
最終的には評定所より享保14年(1729年)4月、死罪の命を下され生涯を閉じます。
なお、評定所は幕府が行う裁判の最高機関です。
評定所の構成メンバーは幕府の要職に就く者。具体的には、老中・寺社奉行・勘定奉行・町奉行・大目付・目付などになります。
当時の江戸南町奉行は大岡越前守。
大岡政談のように、江戸南町奉行の大岡越前守が単独でこの事件の判断をしたわけではありませんが、評決するメンバーの一人であったとは考えられます。
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さいごに 天一坊事件の背景とは
源氏天一坊改行は、第8代将軍徳川吉宗のご落胤を騙りました。では、徳川吉宗とはどのような人物だったのでしょうか。
徳川吉宗は江戸幕府の将軍として、享保の改革を実施したり、大岡越前守忠相など人材登用を積極的に行い、江戸幕府中興の祖と讃えられています。
また、テレビでは「暴れん坊将軍」として、あまりにも有名です。
もつとも、徳川吉宗は将軍になれるような人物ではありませんでした。
生まれたのは紀州国(現在の和歌山県)。
紀州国は徳川御三家の一つである紀州徳川家が治める地で、徳川吉宗も第2代藩主である徳川光貞の子として貞享元年(1684年)に生まれています。
ただし徳川吉宗は第4男で、到底紀州藩主になれるような立場ではありませんでした。
ところが、父の徳川光貞が亡くなり、兄たちも相次いで亡くなったことで、徳川吉宗は宝永2年(1705年)に紀州藩主になります。
これだけでもとても運が良いところですが、さらに徳川吉宗の運命は変化をしていきます。
当時の江戸幕府の将軍は第7代徳川家継です。
しかし、徳川家継はわずか8歳で亡くなり、次の将軍に目された人物も高齢であったり、亡くなったりしたため、紀州藩主の徳川吉宗は享保元年(1716年)に第8代将軍の座に上り詰めます。
ところで、源氏天一坊改行の生年は元禄12年(1699年)で、徳川吉宗の生年は貞享元年(1684年)です。
つまり、徳川吉宗15歳のころに源氏天一坊改行が生まれたことになります。
この当時の徳川吉宗はまだ紀州藩主にはなっていません。それどころか紀州藩主になる可能性もほとんどない状況でした。
紀州藩主の子であっても、藩主になれる可能性のない子供の行動は比較的自由。また、徳川吉宗自身が早熟であり、後世、側室も10人程度はいたと伝えられています。
さらに源氏天一坊改行事件のさなか、家臣が事の真偽を訪ねたところ、徳川吉宗自身が「覚えがある」と語っていたようです。
もちろん、源氏天一坊改行が徳川吉宗の実子であるかどうかは定かではないものの、100%嘘とも断言はできないようです。
ただし、源氏天一坊改行は死罪に処せられています。真偽は別として、少なくとも江戸幕府は完全な嘘としてこの事件を収束させたことだけは確かなようです。
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