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島津斉彬と子供の死因についての噂をご紹介しています!

薩摩藩の鶴丸城
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はじめに

この記事では、島津斉彬(しまづなりあきら)自身と、島津斉彬の子供の死因についての噂をご紹介していきます。

島津斉彬は薩摩藩の第11代藩主。

島津斉彬は幕末の動乱期にあって、福井藩の松平慶永(春嶽)、宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内豊信(容堂)とともに、幕末四賢侯の一人とされています。

英明を讃えられた島津斉彬ですが、その人生は数奇なものでした。特に島津斉彬の子供たちと島津斉彬自身の死因については、今でもさまざまな噂が飛び交っています。

島津斉彬の子供たちの運命はどうだったのか。島津斉彬自身の死因は何だったのか。そのあたりを噂を交えて、お伝えしていきたいと思います。

島津斉彬の置かれた状況

島津斉彬は、薩摩藩主として幕末に大きな活躍を見せています。

島津斉彬は、薩摩藩の第10代藩主島津斉興と正室弥姫の間に生まれた嫡男。普通に考えたら、島津斉彬は生まれたときから薩摩藩主になる立場にいました。

しかし、島津斉興と側室お由羅の方は島津斉彬を嫌い、島津斉彬の弟であり島津斉興と側室お由羅の方の間に生まれた島津久光を擁立しようと画策します。

そして起きたのが「お由羅騒動」。

お由羅騒動で島津斉彬は追い詰められますが、第12代将軍徳川家慶により島津斉興は隠居。島津斉彬はようやく藩主の座におさまることができます。

しかし、島津斉彬はお由羅の方とその一派を積極的に処分をすることがなかったため、お由羅の方たちは薩摩藩の中に残ります。

また、時勢は幕末の難しい時期。活動が目立っていた薩摩藩主である島津斉彬については、敵も多かったと考えられています。

島津斉彬は、薩摩藩内だけでなく薩摩藩外でも多くの敵がいた。主にこのあたりが島津斉彬や、島津斉彬の子供の死因についての噂の原因になっているようです。

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島津斉彬の子供に対する噂とは

薩摩藩の鶴丸城鶴丸城

島津斉彬には、正室の恒姫と少なくとも3人の側室がいました。そのため、島津斉彬は多くの子供に恵まれています。

 

正室との間には、長男 菊三郎。

3人の側室との間には、

次男 寛之助

三男 盛之進

四男 篤之助

五男 虎寿丸

六男 哲丸

長女 澄姫

次女 邦姫

三女 暐姫

四女 典姫

五女 寧姫

 

あわせて11人の子供のいたことが確認をされています。もっとも、ここで気がつくのは6人の男児はすべて幼名であることです。

島津斉彬には6人の男児がいましたが、幼名が記されているということはすべて夭折をしているということ。

また、女児についても長女の澄姫と次女の邦姫は夭折。成長をしたのは三女の暐姫、四女の典姫、五女の寧姫だけと言われています。

11人の子供のうち成長をしたのは3人だけ。しかも、後の薩摩藩主の可能性があった6人の男児はすべてが若くして病死をしています。

そこで、でてくるのが数々の噂。具体的な噂としては毒殺説や呪殺説があります。そして毒殺や呪殺をしたのは、前述のお由羅の方とその一派。

もちろん、呪殺説については現代でも科学的根拠はありませんし、毒殺説にしても明確な証拠はありません。

ただ、島津斉彬には身内に大きな敵が存在していた。このあたりが根拠となって、今でも毒殺説を唱える人も多いようです。

それ以外としては、子どもの多くが夭折した原因を家系に求めるという意見もあります。

島津斉彬の母は、島津斉興の正室弥姫です。弥姫は、鳥取藩主池田氏の出です。

この池田家は、いわゆる短命の家系であったと言われています。実際に弥姫も32歳の若さで亡くなっています。

科学的に、短命の家系とか長命の家系の存在が認められているのかは定かではありません。

しかし、島津斉彬の子供に対する噂としては毒殺説や呪殺説だけでなく、家系によるものと考える人もいるようです。

もっとも、この時代は医学が未発達で、とりわけ乳幼児の死亡率は現代とは比べ物にならないくらい高いものがありました。

たとえば、お由羅騒動のところでご紹介をした第12代将軍徳川家慶には27人の子供がいました。しかし、その中で成人をしたのは徳川家慶の4男である徳川家定だけ。

徳川家定は第13代将軍に就きましたが、病弱などの理由で政務を見ることはできず、34歳の若さで亡くなっています。

この時代は、たとえ大名家や将軍家であっても、子供の成長を見ることは難しかった。

3人の子供を残した島津斉彬の方が、1人の子どもしか残せなかった徳川家慶よりも確率的には良かった。

島津斉彬の子供の多くが早くに亡くなったことについては、さまざまな噂がありますが、当時の医療の実情を考えれば決して不思議ではなかったとも考えられます。

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島津斉彬の死因についての噂とは

島津斉彬は1809年生まれ。薩摩藩主となったのは1851年。島津斉彬は40歳を過ぎて、ようやく薩摩藩主の座に就いています。

しかし、そのわずか7年後の1858年に亡くなっています。

幕末の大名の中でもとりわけ有名だった島津斉彬ですが、藩主としての活動期間は短かったことがわかります。

島津久光が亡くなったのは、鹿児島城下で行っていた軍事演習の時が原因と言われています。

演習の指揮を執っていた時、急に具合が悪くなり、その後、高熱と激しい吐き気を繰り返し、約1週間後に亡くなったとされています。

それまで元気であった島津斉彬の容態が急変。発症後、わずか1週間で亡くなったことから、島津斉彬の死因についてはいくつかの噂があるようです。

噂の最大のものは毒殺。

島津斉彬の子供の多くが夭折したことと同様に、島津斉彬もお由羅の方とその一派に毒殺されたのではないかという噂があります。

また、島津斉彬は開明的な藩主と言われていましたが、当然、これに反感を覚える家臣もいたはずです。

島津斉彬が倒れたときに行っていたのは軍事演習です。そして軍事演習の目的は、島津斉彬が予定をしていた藩兵5000人を率いての上洛のためのものでした。

藩兵5000人を率いての上洛には膨大な費用がかかります。また、この上洛は江戸幕府の大老井伊直弼が引き起こした安政の大獄に抗議するためのものでした。

島津斉彬の毒殺説はよく知られた噂です。しかし毒殺の実行犯としては、お由羅の方とその一派だけがあげられているわけではありません。

島津斉彬の施策に対して反感を持つ家臣も少なからずいました。

また、少しばかり突飛な発想かもしれませんが、大きな権力を握っていた井伊直弼が首謀者であるという噂もあるようです。

島津斉彬の死については病気という説もあります。

最初に疑われたのは、当時流行っていたコレラ。病状の経過から、現在ではコレラではなく赤痢だったのではないかとも言われています。

コレラにしても赤痢にしても当時の医学の実力からしたら、当然に考えられることです。

しかし、多くの人に期待をされていた薩摩藩主島津斉彬。その島津斉彬が元気だったのにも関わらず、49歳の若さで急死をした。

この事実が、当時の世情と複雑に絡まって、今でも毒殺説が根強く語られているように思われます。

さいごに

薩摩藩の鶴丸城鶴丸城

島津斉彬が亡くなった後、薩摩藩主におさまったのは島津忠義です。島津忠義は、島津斉彬の弟でお由羅騒動にも登場した島津久光の子です。

島津斉彬は亡くなる直前に、島津忠義を後継に指名しています。島津斉彬には後継者たる男子はいなかったので、この選択は自然のことともいえそうです。

しかし、島津忠義が薩摩藩主になったことは、考えようによってはお由羅の方とその一派にとっては大願成就とも言うべき出来事です。

島津斉彬の急死して、島津忠義が薩摩藩主に就いた。この事実だけを見たら、島津斉彬の子供たちに対する毒殺説、島津斉彬の毒殺説。

何れも証拠はないとはいえ、噂としてでるのは理解できるような気もします。

島津斉彬の子供たちの夭折、島津斉彬の急死。

どちらも当時の医学の状況から見たら病死というのが可能性としては一番高いようにも思えますが、実際はどうだったのでしょうか。

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