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はじめに
この記事では西郷隆盛の3人の弟のうち、早くに生涯を閉じた西郷吉二郎と西郷小兵衛の2人の生涯について簡単にご紹介をしていきます。幕末の薩摩藩士であった西郷吉兵衛。西郷吉兵衛と妻の政佐の間には、4人の男子と3人の女子が生まれています。
この中で4人の男子に着目をすると
長男が、西郷隆盛。
次男が、西郷吉二郎。
三男が、西郷従道。
四男が、西郷小兵衛。
また、それぞれの生没年は、
長男の西郷隆盛は、1828年に生まれ、1877年に亡くなります。
次男の西郷吉二郎は、1833年に生まれ、1868年に亡くなります。
三男の西郷従道は、1843年に生まれ、1902年に亡くなります。
四男の西郷小兵衛は、1847年に生まれ、1877年に亡くなります。
西郷家4人の男子のうち、西郷隆盛よりも長生きをしたのは三男の西郷従道だけ。次男の西郷吉二郎と四男の西郷小兵衛は、長男の西郷隆盛よりも早くに亡くなっています。
それでは、西郷隆盛の2人の弟、西郷吉二郎と西郷小兵衛の生涯についてご案内をしていきます。
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西郷吉二郎隆広(1833年~1868年)
西郷家の次男である西郷吉二郎隆広(さいごうきちじうたかひろ)は、西郷隆盛の約5歳年下の弟です。西郷家は兄である西郷隆盛が家督相続をしたものの、西郷隆盛は国事に忙しかったため、実質的に弟である西郷吉二郎が西郷家を切り盛りすることになります。
そのため、西郷吉二郎は重職とは言えないながらも薩摩藩の中で役割を与えられ、また妻を迎えて一男一女を設けています。
西郷家は家督相続をした西郷隆盛が守るべきものであり、弟である西郷吉二郎は他家に養子にでる。あるいは西郷家にとどまりながらも、その身分は「部屋住み」で婚姻をすることなどは考えられない。それが当時の一般的な考え方でした。
しかし、西郷吉二郎は養子に出されることもなく妻帯もしています。これは家督相続をしたのは西郷隆盛でしたが、実際には西郷吉二郎が西郷家を支えていためだと思われます。
この点に関しては、兄である西郷隆盛も「西郷吉二郎は弟ではあるけれど、実質的には西郷吉二郎が兄で、自分は弟である」というようなことを語っています。
西郷隆盛は、弟である西郷吉二郎にとても強い感謝の気持ちを抱いていたのではないでしょうか。
西郷吉二郎は、戊辰戦争に参加をします。しかし1868年、現在の新潟県三条市で奥羽越列藩同盟軍と戦い負傷。そのときの傷が元で亡くなっています。
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西郷小兵衛隆雄(1847年~1877年)
西郷小兵衛隆雄(さいごうこへえたかかつ)は、西郷隆盛の約19歳年下の弟になります。
西郷小兵衛も戊辰戦争に参加。兄の西郷吉二郎は戊辰戦争で亡くなりましたが、西郷小兵衛は生き残り明治の世を迎えています。
西郷小兵衛は周囲から、兄である西郷隆盛と容貌も性格も似ていたと伝えられていますが、西郷隆盛とは異なり明治新政府の中で官職を求めることはありませんでした。
西郷小兵衛は1877年の西南戦争に指揮官(小隊長)として参加。現在の熊本県玉名市の菊地川の付近で敵の銃弾が胸を貫通し、それが元で亡くなっています。
西郷小兵衛は指揮官でありながら、部隊の士気を上げるため最前線で陣頭指揮。そのため敵の格好の標的となり、撃たれたと言われています。
西郷隆盛はこの末弟をことのほか可愛がっていたようで、西郷小兵衛の死を知り号泣したと伝えられています。
おわりに
この記事では西郷隆盛の3人の弟のうち、次男の西郷吉二郎と四男の西郷小兵衛について書いてきました。
ところで、西郷吉二郎と西郷小兵衛には2つの共通点があります。一つは、西郷吉二郎と西郷小兵衛は西郷隆盛の弟であったこと。もう一つは、西郷吉二郎と西郷小兵衛は西郷隆盛よりも早くに亡くなっていることです。
三男の西郷従道も西郷隆盛の弟です。しかし、西郷従道は1873年の征韓論に敗れて下野した西郷隆盛とは異なり、西郷隆盛が下野して鹿児島へ帰ったのちも明治政府に残り、その中で才能を発揮しています。
西郷従道は西郷隆盛の弟であることは間違いないものの、取るべき進路は西郷隆盛とは異なっていました。
言い換えると、西郷吉二郎と西郷小兵衛は、西郷隆盛の弟であり、かつ西郷隆盛に従っていたがゆえに、結果として西郷隆盛よりも先に命を落としたと考えることもできます。
西郷吉二郎と西郷小兵衛が意に反しながらも西郷隆盛に従っていたとは考えにくいところですが、果たしてどのような感情を持って兄に従っていたのでしょうか。
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