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目次
桶狭間の戦いの真相とは
この記事では、桶狭間の戦いの真相などをわかりやすくご案内していきます。桶狭間の戦いは、戦国時代でもひときわ有名な戦いです。
桶狭間の戦いはわかりやすく言えば、小大名に過ぎなかった尾張の織田信長が、駿河・遠江・三河の大大名で「海道一の弓取り」と讃えられていた今川義元を討ち取った戦いです。
しかし現在とは異なり、きちんとした記録が文書として残されているわけではありません。
仮にあったとしても勝者の側から書いたもの、あるいははるか後世に書かれたものです。
そのような状況から、桶狭間の戦いは有名でも、真相についてはむしろわからないことの方が多いのではないでしょうか。
この記事では、桶狭間の戦いをわかりやすくご案内するとともに、桶狭間の戦いの真相で、現時点で語られていることのいくつかについて触れていきたいと思います。
桶狭間の戦いが行われた日時と場所の真相とは
桶狭間の戦いは、西暦で示すと1560年6月12日に起こった戦い。当時の暦でいうと永禄3年5月19日にあった戦いです。桶狭間の戦いで特徴的なのは、桶狭間の戦いそのものは午前11時ころに始まり午後1時ころには終わっていること。
もちろん、前哨戦のようなものはそれ以前からありましたし、桶狭間の戦いそのものが終っても、すぐに今川氏と織田氏の衝突がなくなったわけではありません。
しかし、桶狭間という場所における戦いは、ほんの2~3時間程度で終わっています。
では、場所はどこだったのでしょうか。
桶狭間の戦いの場所は、その名前のとおり尾張国桶狭間。
現在の愛知県名古屋市緑区ならびに愛知県豊明市にまたがる地域とされています。
ところで、狭間というのは本来は狭い地域を意味するものです。一般的に、地名で狭間という名称が用いられるのは、山と山などに挟まれた狭いくぼ地です。
ところが前述のとおり、桶狭間はかなり広い地域です。そのため桶狭間の戦いは、桶狭間では行われていないという説もあります。
よく聞くのは、桶狭間は窪地などではなく、当時は「おけはざまやま」と呼ばれた広い丘陵地帯を全般的に呼称するものであった。
「はざま」だけならば狭いくぼ地となりますが、そこに「やま」という文字が加わると地名の持つ意味が変わってくる可能性があります。
また、実際に桶狭間の戦いが行われた場所は「おけはざまやま」ではなく、そこから少し離れた田楽狭間(でんがくはざま)という、狭いくぼ地で行われたという説を唱える人も多いようです。
そのため、この戦いを桶狭間の戦いではなく田楽狭間の戦いと呼ぶ人もいます。
桶狭間の戦いは有名な戦いなのに、実際に戦闘が繰り広げた場所さえ真相が分からない。
今でも、桶狭間の戦いの真相がさまざまに追及されているのは、当然のことのような気もします。
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桶狭間の戦い当時の織田氏
桶狭間の戦い当時の織田氏の当主は織田信長です。織田信長の生年月日は1534年6月23日なので、桶狭間の戦い当時は25歳になります。
織田信長の父は織田信秀。
尾張国の織田信秀は戦上手で知られていたものの、織田信長の生まれた当時の立場は決して高いものではありませんでした。
尾張国の守護大名は斯波氏で、実際は尾張国を2つに分割して、それぞれに守護代が置かれていました。
その一つが尾張下四郡で、守護代は清州織田氏。清州織田氏の家臣が織田信秀です。
織田信秀自身も城を任されていましたが、それは守護代に命じられたもの。織田信秀は、守護代の一家臣にすぎないという立場です。
1551年、織田信秀は亡くなります。
織田信秀の嫡男は織田信長でしたが、すんなりと後継になれたわけではありません。
織田信秀が亡くなるとすぐに後継者争いが始まります。
織田信長と織田信長の弟が後継者争いを繰り広げ、その争いに守護代の清州織田家だけでなく、守護の斯波氏も加わります。
結局、後継者争いに勝ったのは織田信長。
織田信長が後継者になるころには、主筋の清州織田家はすでに滅ぼされており、守護の斯波氏はそれ以前に尾張国における実権を失っていました。
抗争の果てに、織田信長は尾張下4郡を治めることになります。
織田信長が次に狙ったのは尾張上4郡。ここの守護代は岩倉織田氏でしたが、織田信長は戦いを挑み打ち破ります。
この結果、織田信長はようやく尾張国を手中におさめることができますが、このとき1559年。
織田信長は尾張国を手中にするまで約8年を要し、翌年に桶狭間の戦いを迎えています。
桶狭間の戦い当時の今川氏
今川氏の当主は今川義元です。今川義元は1519年生まれなので、桶狭間の戦い当時は40歳または41歳になります。
今川氏は元々は守護大名で、戦国時代に入ると戦国大名に脱皮を図ることに成功しています。
このあたりは、尾張国の守護大名ながら戦国大名になることができなかった斯波氏とは大きく異なっています。
今川義元は、父今川氏親の死により今川氏の後継者になります。もっとも、今川義元は今川氏親の五男で当時は僧籍に入っていました。
本来、今川家を継げなかったはずの今川義元。
1536年に今川氏親が亡くなった後、激しい後継者争いが繰り広げられます。
しかし、今川氏親の正室で、今川義元の実母であった寿桂尼(じゅけいに)の尽力により、今川義元が勝利し今川家の当主におさまっています。
今川義元が、今川家の当主となった時の領地は駿河と遠江。
ただし、今川氏は北に武田、東に北条という大国と接していました。そのため、武田氏や北条氏とは常に緊張関係にありました。
それでも、今川義元は西の小国三河国の松平氏を事実上統治下におくことに成功。今川義元の時代に今川氏の領地は最大になります。
さらに1554年には、武田氏と北条氏と縁戚関係を構築し、三国同盟を締結することに成功。
今川義元の領地と接する国ではっきりと敵対関係にあるのは、尾張の織田氏のみとなります。
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桶狭間の戦い
今川義元の領国経営が安定すると、いよいよ織田信長の尾張国へ侵攻を図ります。そして1560年、今川義元は2万人(一説には4万人)の軍勢をもって尾張国に侵入。織田氏の砦を次々と攻略していきます。
一方の織田信長の軍勢は約5000人。
ただし砦などに籠る兵力もいたため、織田信長直轄の軍勢はせいぜい2000人程度であったとも言われています。
今川義元にしても20000人を直轄していたわけでなく、本体の軍勢は約5000人程度であったと考えられていますが、それでも多勢に無勢という状況に変わりはありません。
戦力的に、織田信長は圧倒的に不利でした。
今川義元は本隊を率いて桶狭間で休息をとります。その動向を調べていた織田信長の本隊約2000人は今川義元の本隊を急襲します。
また、このときに豪雨があったとも言われ、今川義元は織田信長の急襲に気が付くのが遅れたと考えられています。
人数は多くても休息をとっていた今川義元の本隊。それを急襲した織田信長。雨も織田信長に味方します。
結果的に、今川義元は織田信長の家臣毛利新介に討ち取られてしまいます。
桶狭間の戦いで織田信長が勝利した真相とは
桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たしたのは毛利新介。当然、戦後の論功行賞では一番とされてしかるべきです。しかし桶狭間の戦いにおいて一番の功績と認められたのは、毛利新介ではなく簗田政綱(やなだまさつな)であったと言われています。
どうして簗田政綱の功績が一番とされていたのか、このあたりの真相は今でもわかってはいません。
一説には、簗田政綱が織田信長に奇襲攻撃を進言した。
簗田政綱が今川義元が桶狭間で休息していることを調べあげて大勝につながった。
どちらの説も確たる証拠があったわけではなく、この説が真相であるかどうかもわかりません。
しかし、今川義元を討ち取った毛利新介よりも簗田政綱の功績が多大と認められたのは事実のようで、織田信長が諜報活動をとても重要視していたことがわかります。
もしかしたら、織田信長が桶狭間の戦いで勝利した真相は、諜報活動にあったのかもしれないですね。
今川義元が桶狭間の戦いを仕掛けた真相とは
従来、桶狭間の戦いは、今川義元が上洛するための戦いと言われていました。駿河国から京都にかけての道筋でまず邪魔になるのが尾張の織田信長。そのため2万人の大軍勢を集めて、織田信長に戦いを仕掛けたと考えられていました。
しかし、最近ではこの意見に対して疑問も呈されています。
桶狭間の戦いの真相は今川義元の上洛にあったわけではなく、織田信長に勝利して尾張国を自らの領土に組み入れるために行ったというものです。
最終的に、今川義元の目的は上洛にあったのかもしれません。ただ、この時点で今川義元がすぐの上洛を考えていたのかは疑問が残ります。
当時の戦国大名の多くは戦力の中に農民を多く含んでいました。これは今川義元だけでなく、武田氏も北条氏も同様です。
兵農分離で兵士を専業にして軍隊にしたのは、織田信長が最初とも言われています。
通常の戦国大名は、農民を兵力の中心としていました。
したがって、大名が戦を仕掛けるのは農閑期。 農閑期に戦を始めて農繁期には戦いを終了させ農業に従事させる。
これが一般的な戦国大名の戦い方です。
しかし桶狭間の戦いがあったのは現在でいえば6月。
紛れもなく農繁期です。農繁期に戦いができないわけではありませんが、少なくとも時間をかけることはできません。
今川義元が優秀な兵力を率いていたとしても、短期間で上洛を果たすことは不可能に近いものがあります。
桶狭間の戦いの目的。
その真相は今でもはっきりとはしていません。
ただ今川義元が上洛をするため織田信長に戦いを仕掛けたというよりも、まずは織田信長の領地を奪い取ってそのうえで上洛を狙う。
どちらかというと、それが真相であるという意見が強くなっているよう見受けられます。
さいごに 桶狭間の戦い以後
桶狭間の戦いで今川義元は討死しました。しかし、今川氏の領地は維持されています。
確かに今川氏の属国のようになっていた三河国は、本来の領主であった松平元康(後の徳川家康)の元に戻り、さらに徳川家康は織田信長と同盟を結びます。
桶狭間の戦いで今川氏は三河国を失いますが、それでも駿河国と遠江国は今川氏の領土のままです。
仮に今川義元の後継者が優秀な人物であったとしたら、その後の歴史は大きく変わったかもしれません。
しかし、今川義元の後継者である今川氏真は暗愚で知られていました。
今川義元が討死した後、今川氏の家臣からは弔い合戦を訴える声がかなりありましたが、今川氏真は弔い合戦をすることはありませんでした。
桶狭間の戦いは、織田信長の大勝で終わったものの織田氏にとっても精一杯の戦い。
今川氏真がすぐに弔い合戦をしていれば、戦力的にははるかに勝る今川氏が勝利した可能性は高かったはずです。
今川氏真が弔い合戦をしなかったことで、今川氏の家臣でも今川氏真から離反する武将は多かったようです。
結果的に1569年、今川氏真自身は生き残ったものの、戦国大名としての今川氏は武田信玄と徳川家康に攻め込まれて滅亡をします。
一方、織田信長はどうだったでしょうか。
桶狭間の戦い後、織田信長と徳川家康は同盟を結びます。
徳川家康を味方に引き入れたことで、織田信長は武田信玄や今川氏真などと直接のぶつかり合いを避けることができるようになります。
また、今川氏よりも織田氏の方がはるかに京都への距離が短いという、地理的に優位な立場にありました。
織田信長は、後に室町幕府第15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛を果たすことに成功します。
その後は1982年に本能寺の変で倒れるまで、織田信長は天下布武への道を突き進むことになります。
織田信長自身は天下統一を果たすことはできませんでしたが、天下統一の下地を作ったことは間違いありません。
本能寺の変後ほどなくして、織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下統一を成し遂げます。
桶狭間の戦いは、後世、その重要性が語られるようになりました。しかし当時としては、戦国時代に数多くあった局地戦の一つにすぎません。
そんなこともあって、桶狭間の戦いのさまざまな真相については、まだまだ分からないことばかり。
もしかしたらこれからも真相は分からないままなのかもしれません。
この記事では、桶狭間の戦いをわかりやすくご案内するとともに、桶狭間の戦いの真相のいくつかをご紹介しました。
ここで書いた真相は多くの識者に言われているものですが、だからといって本当に真実なのかはわかりません。
でも、真実が不透明であるからこそ、桶狭間の戦いの真相が今でも追い求められているのかもしれないですね。
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