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今川義元が桶狭間の戦いで最期を迎えるまでの生涯を解説!

桶狭間の戦い古戦場
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今川義元の生涯とは

今川義元は1519年に生まれ、1560年に亡くなります。

今川義元は「海道一の弓取り」と称賛されるほど、優れた戦国大名として評価されることもあります。

しかし、戦力的にはるかに劣る織田信長に、桶狭間の戦いで討ち取られたことから、愚将という評価もされています。

今川義元は、どのような人物だったのでしょうか。

この記事では、今川義元が桶狭間の戦いで最期を迎えるまでの生涯を、簡単にご紹介していきます。

今川義元の生涯 花倉の乱まで

今川氏は、守護大名から戦国大名への脱皮を見事に図っています。今川氏は由緒ある家であるとともに、実力もある家でした。

今川義元は、今川家の当主であった今川氏親の子として生まれます。

もっとも、今川義元自身は五男だったため、今川家を継ぐ立場にはなく、4歳で仏門に入ります。

ところが、今川氏親の後継者であった兄の今川氏輝、さらに今川氏輝の次に優先順位が高かった今川彦五郎が相次いで亡くなります。

今川義元は五男ですが、早くに亡くなった今川氏輝や今川彦五郎と同じく正室(後の寿桂尼)の子。

そのため、今川家の後継者として今川義元を推す声が強くなり還俗。この段階で、今川義元を名乗るようになります。

しかし、武将としての知識も経験もない、今川義元の後継に疑問の声があったのも事実。

今川義元と敵対する勢力が今川家の後継争いを繰り広げたのが、1536年の「花倉の乱(はなくらのらん)」です。

結果的に今川義元が勝利し、今川家の当主の座におさまります。

花倉の乱が起きたのは今川義元が17歳の頃で、直前まで僧籍にありました。当然のことながら、花倉の乱で今川義元の武将としての評価を論ずることはできません。

しかし、今川義元の身近には太原雪斎など有能な家臣がいました。

今川義元は有能な家臣をどんどんと登用し、「海道一の弓取り」と称賛されるようになります。

桶狭間の戦いで、あっけない最期を遂げてしまいましたが、今川義元には有能な人材を見抜く力があったのかもしれません。
 

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今川義元の生涯 善徳寺の会盟まで

花倉の乱の勝利で今川家の後継者となった今川義元ですが、お家騒動で今川氏そのものの勢力は弱くなっていました。

また、今川氏は周囲を有力な大名に囲まれていました。北の武田氏、東の北条氏、そして西の織田氏です。

今川氏と武田氏、今川氏と北条氏は、それぞれに同盟を結んでいたものの、それほど強い同盟とは言えず、かえって今川氏の弱体化を狙っての戦いが相次いでいました。

また、西の織田氏とは常に敵対関係にあり、今川氏は南の海を除く三方と、常に臨戦態勢にあるという状況に陥っていました。

今川義元は、北の武田氏、東の北条氏、西の織田氏との戦いを繰り広げ、長年にわたり一進一退の攻防を繰り広げます。

その状況が変わったのは三河の存在。三河は今川家と織田家に挟まれた小国です。

治めていたのは松平氏ですが、当主の松平広忠が家臣に殺されると見るや、今川氏は三河に侵攻。

事実上、今川義元は三河国を統治下に収めます。

この段階で、今川義元は駿河、遠江、そして三河の国を治める大きな大名に成長し、今川義元の時代に今川氏は最大の領地を統治することになります。

今川義元が今川家の当主となったのは1536年。そして最大の版図を領有するようになったのが1549年。

この間、13年の歳月がたっています。

一説に今川義元は、戦いがあまりうまくなかったという評価があります。

それは今川義元の桶狭間の戦いでの最期があまりにもあっけなかったこと、そして前述のとおり長い期間、版図拡大が思うように任せなかったこと。

そのあたりが理由のようですが、武田氏にしても北条氏にしても当時の代表的な戦国大名。

そうした敵に伍して戦うことができたのは、一つ一つの戦いの巧拙は別にしても、全体的に見たら、やはり優れた武将という評価がされてしかるべきようにも思えます。

1554年、今川家にとって大きな転機が訪れます。

いわゆる善徳寺の会盟です。善徳寺の会盟は甲相駿三国同盟とも言われています。

甲斐の武田氏、相模の北条氏、そして駿河の今川氏がそれぞれに縁戚関係を結び、同盟を結んだのが善徳寺の会盟です。

武田氏にも北条氏にもそれぞれ同盟を結ばなければ事情があったはずですが、今川氏も同じ。

今川義元は善徳寺の会盟により北の武田氏、東の北条氏の動向を気にかける必要がなくなり、対織田氏に集中することができるようになりました。

今川義元には、相当の外交手腕があったものと思われます。

また今川義元は、善徳寺の会盟の前年の1553年に、今川仮名目録を制定します。

今川仮名目録そのものは今川氏親の代に制定されていますが、今川義元は手を加えて今川氏が室町幕府に属するわけではなく、戦国大名として独立した立場であることを宣言しています。

今川仮名目録はいわゆる分国法ですが、分国法はある程度、権力が安定しないと作れないものです。

そのように考えると、今川義元は対外的に優れていただけでなく、しっかりと自らの家臣団を押さえていたと考えられます。
 

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今川義元の生涯 桶狭間の戦いまで

今川義元の運命が暗転するのは1560年の桶狭間の戦いです。

武田氏、北条氏という後顧の憂いをなくした今川義元は、いよいよ織田信長との対決を決意します。

今川義元の軍勢は約2万人、対する織田信長の軍勢はせいぜい3千人。普通に考えれば織田信長に勝ち目はありません。

しかし織田信長は、今川義元の居場所を探し続け、今川義元の本陣を急襲します。

今川義元の軍勢は多いとはいえ、その多くは織田氏の砦などを攻めていて、本陣の兵力はさほど多くありませんでした。

そのため、織田信長の奇襲を受けた今川義元は、あっけなく討ち取られています。

 
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さいごに 今川義元の評価とは

今川義元の墓今川義元の墓

この記事では、今川義元が桶狭間の戦いで最期を迎えるまでの生涯を、簡単にご紹介してきました。

今川義元は、一般的にはあまり評価されていないようです。

何よりも桶狭間の戦いで、あっけない最期を遂げてしまったのが、評価を決定づけています。

また、今川義元は戦国大名としての脱皮を見事に図り、その版図も拡大させていますが、これは今川義元ではなく、太原雪斎などの有能な家臣によるものとみる向きもあるようです。

さらに、今川義元の後継者である今川氏真は戦国大名としての能力が低く、1569年に戦国大名としての今川氏は滅亡をしています。

後継者である今川氏真を満足に育てることができなかった。これも今川義元の評価の低さに追い打ちをかけているようです。

一方、前述のとおり今川義元は戦いを通じて、あるいは外交を通じて、今川氏の領土を拡大しています。

また、力が安定していなければ制定することが難しい分国法も、新たに制定しています。

この事実を考えれば、戦国大名としての今川義元はもっと評価されてしかるべきだと思うのですがどうでしょうか。

現在、今川義元については再評価をする動きが広まっているようです。5年後、あるいは10年後、今川義元の評価がどのようになっているのか。

とても楽しみです。

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