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豊臣秀次事件とは!豊臣秀吉に切腹させられた理由をご紹介

大坂城と豊臣家の家紋
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はじめに

天下を取った豊臣秀吉ですが、天下人になった瞬間から凋落は始まっていました。

豊臣秀吉の晩年には、豊臣家の将来を暗示させる様々な事件がありましたが、その一つが豊臣秀次事件です。

豊臣秀次事件は、豊臣秀吉が豊臣秀次に切腹を命じた事件です。しかし、それだけではなく、豊臣秀吉は豊臣秀次の正室や側室、そしてその子供たちも処刑してしまいます。

豊臣秀次事件は悲惨さが現代まで伝えられていますが、この記事では豊臣秀次が切腹をした理由などについてお伝えしていきます。

豊臣秀次とは

豊臣秀次は1568年に生まれ、1595年に生涯を終えています。

豊臣秀次は豊臣秀吉の姉「とも」の長男。豊臣秀吉と豊臣秀次は、叔父と甥の関係です。血縁の少ない豊臣秀吉ですが、豊臣秀次は数少ない血縁者の一人てした。

そのため豊臣秀吉に重用され、豊臣秀吉の出世とともに豊臣秀次も世間にその名前を知られるようになります。

豊臣秀次についての有名な戦いは、1584年の小牧長久手の戦い。

小牧長久手の戦いは、天下取りにまい進する豊臣秀吉と、それを阻止する徳川家康が直接にぶつかり合った戦いとして知られています。

小牧長久手の戦いの豊臣秀次は、敵である徳川家康に翻弄されて大敗を喫し、豊臣秀吉から強く叱責されてます。

もっとも豊臣秀次は汚名をそそぐため、その後の戦いでは武功をあげ、1590年の小田原征伐後は尾張を中心に100万石の大名に出世します。

豊臣秀次の運命が大きな変化を見せたのは1591年。

それより少し前に、豊臣秀吉と側室淀殿の間に鶴松が誕生し、豊臣家の跡取りとされていました。

しかし、鶴松は僅か2歳で死去。自暴自棄に陥った豊臣秀吉は明国への出兵を決意。

合わせて、豊臣秀次を養子として、豊臣秀吉の関白職が豊臣秀次に移り、豊臣秀次は豊臣家における第2代目の関白になります。

ただ、豊臣秀吉が全面的に豊臣秀次を信用していたかというとそうでもないようで、豊臣秀吉は豊臣秀次に対して、関白になっても女狂いはするななどという訓戒状をだしています。

それでも豊臣秀次にとってここまでは順風でした。それが強烈な逆風になる時期がやってきます。

それは豊臣秀吉と淀殿の間に2人目の子、しかも男子が誕生したからです。

この男子こそ後の豊臣秀頼になる人物ですが、実子が誕生したことで豊臣秀吉には大きな迷いが生じます。

それは鶴松の死去に伴い、自分には後継者はもう生まれないはず。それでも豊臣家は維持しなければいけないから豊臣秀次を後継者とした。しかし改めて男子を授かることができた。

当然、後継者は実子であるべきで、豊臣秀次を後継にしたことは早計に過ぎた。豊臣秀吉がそう考えるのはむしろ自然なことです。

そこで豊臣秀吉は豊臣秀次に将来は日本を5つに分け、そのうち4つは豊臣秀次に、残りの1つは後の豊臣秀頼に譲渡すと申し伝えます。

このことには納得した豊臣秀次ですが、豊臣秀吉の本当の願いは、2代の豊臣秀次から3代の豊臣秀頼に政権を譲り渡すこと。

しかも老境に差し掛かっていた豊臣秀吉にとって、この願望は早くに実現させなければいけないものでした。

そのような背景から、次第に豊臣秀次は酒におぼれ、豊臣秀吉から禁止されていた女狂いに現実逃避をするようになります。

また、豊臣秀次に謀叛の疑いがかけられるようにもなります。

豊臣秀次事件に際して、当事者の豊臣秀次謀反の企ては事実無根とも言われていますが、こうしたいくつかの事情から豊臣秀次は高野山に追放。

豊臣秀吉から切腹を命じられた豊臣秀次は同地で27歳の生涯を閉じます。

さらに豊臣秀次には、約30人の正室と側室がいました。また、豊臣秀次との間に生まれた子もいましたが、豊臣秀吉は全員を捕え処刑を命じます。

京都の三条河原では合計40人以上の人が一気に処刑され、その後には塚が設けられていたと伝えられています。

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豊臣秀次事件が起きた理由とは

豊臣秀次事件で、豊臣秀次が切腹をしたのはどのような理由があったのでしょうか。ここでは、その理由のいくつかをご紹介します。

豊臣秀次謀叛説

豊臣秀次は、豊臣秀吉に対して謀叛を企てたから切腹に追い込まれた。豊臣秀次謀叛説は豊臣秀次が切腹した理由としてはわかりやすいものです。

ただ、この謀叛説は切腹の理由としては弱いようです。豊臣秀次謀叛説はささやかれていたものの、同時に当時から懐疑的とされていました。

その理由は何よりも豊臣秀次の死因です。

豊臣秀次は切腹で生涯を閉じていますが、仮に謀叛が原因だとしたら切腹では済まなかったはず。

切腹は武士の尊厳を認めたものであるため、豊臣秀次謀叛説はこの一事をとっても理由としては疑問が残ります。

豊臣秀吉側近の謀略説

豊臣秀吉の権力が豊臣秀次に移って困る人はたくさんいます。

たとえば、豊臣秀頼を産んだ淀殿の側近、豊臣秀吉の側近として仕えていた人たちも、豊臣秀次に権力が移ることはある意味恐怖であったはずです。

そこで出てくるのが豊臣秀吉側近の謀略説です。

簡単に言えば、豊臣秀吉の側近が豊臣秀吉に豊臣秀次の悪行を吹き込んだ、あるいは淀殿やその側近が豊臣秀吉を焚きつけた。そのようなことがあっても不思議ではありません。

また、その謀略説の筆頭にあげられるのが石田三成です。

石田三成は豊臣秀吉の側にあって、たとえば千利休を切腹に追い込んだとも言われていますが、同様に豊臣秀次を切腹に追い込んだのも石田三成ではないかと考えられています。

豊臣秀次の切腹当時、豊臣秀吉は老境に差し掛かり、しかも老耄の気配があった。また、石田三成は豊臣秀吉の側近中の側近として権勢をふるっていた。

こうした背景から石田三成謀略説は否定はできないところですが、残念ながらその根拠となる信用できる史料はないようです。

豊臣秀吉側近の謀略説、とりわけ石田三成謀略説は小説としては面白いし、絶対にないとは否定できないものの、真実であるという証明もできないというのが実際のところです。

豊臣秀次乱行説

豊臣秀吉の訓戒状にもあるとおり、豊臣秀次にはいくつかの悪癖があったようです。そうした豊臣秀次の悪癖がまとまって豊臣秀次乱行説に発展しています。

豊臣秀次が関白であったころ正親町上皇が崩御。

関白である以上、一定期間は喪に服さなければならないところ、なんと鹿狩りを実施。それが豊臣秀吉の逆鱗に触れたと言われています。

また、豊臣秀次を殺生関白と称することもありますが、この呼称もこの鹿狩りにあると言われています。

豊臣秀次は女人禁制であるはずの比叡山に、女房を多数引き連れて宴を催します。また、殺生禁止の地で鹿狩りなどを行い、やはり豊臣秀吉の逆鱗に触れたと言われています。

さらに豊臣秀次には生きている人間を鉄砲で撃ち殺したり、刀で試し切りをしたという説もあります。

こうした豊臣秀次乱行説は前述の豊臣秀吉側近の謀略説とは異なり、史料に残されているものが多いという特徴があります。

もっとも、その史料の多くは信憑性に疑問が呈されていたり、ずっと後世に作られたものも多いようなので、どこまでが真実なのかは定かではありません。

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さいごに 豊臣秀吉との確執説

豊臣家が居城とした大坂城の夜景
豊臣秀次事件で、豊臣秀次が切腹した理由としてもっとも確率が髙そうなのが豊臣秀吉との確執説。

しかも、それは豊臣秀吉が豊臣秀次に対して一方的に仕掛けた確執です。

人間の感情に基づく部分だけに、史料など明確な根拠はありませんが、豊臣秀次事件でもっとも理解しやすいのが確執説です。

そもそも豊臣秀次は若いながらも有能な武将として知られていました。

小牧長久手の戦いでは失態をおかしていますが、その後の豊臣秀次の戦いぶりは、当時の武将の中でも秀でていたと考えられています。

また領主としても善政を敷いていたとも言われており、そうした実績があったからこそ若くして100万石を領していたと考えられます。

さらに学問を愛すること、茶の湯を愛することでも知られており、当時の武将としては一流の教養があったと考えられてもいます。

こうした状況を考えると、豊臣秀次が豊臣秀吉に切腹を命じられる明確な理由は、ますますわかりにくくなります。

しかし、豊臣秀吉の心情を考えると、豊臣秀次が切腹した理由は分かりやすくなります。

幼いころから徒手空拳で成り上がってきた豊臣秀吉。その豊臣秀吉が何としても守りたいのが一代で築き上げた豊臣家。

豊臣家を維持するために、後継者がいなかった豊臣秀吉は、血縁関係の濃い甥の豊臣秀次を後継者と定めます。

しかも豊臣秀次は無能な人物ではなく、むしろ文武両道に秀でた有能な武将でした。

このまま豊臣秀次が豊臣家の後継者であれば豊臣家も無事であったかもしれません。

ところが、豊臣秀次を後継に指名してすぐ後に、豊臣秀吉自身が男子を授かった。もちろん乳幼児の器量など分かるはずもありません。

しかし、老境に差し掛かり、天下人になってからは判断能力も衰えていた豊臣秀吉に、そんな意見が通るはずもありません。

また、推測に過ぎないながらも、実権が豊臣秀次に移ることを良しとしない人も多数存在をしていました。

判断力の衰えた豊臣秀吉、讒言する側近たち。次第に豊臣秀吉は豊臣秀次を廃することを考え、自分の目の黒いうちに子供の豊臣秀頼を後継者にすることを企てます。

豊臣秀次には謀叛説もあるようですが、むしろこの確執説の方が豊臣秀次の切腹の理由に近いようにも思われます。

最終的に豊臣秀吉は実子の豊臣秀頼を後継者にするため、あれこれと難癖をつけ豊臣秀次を追い込み、さらに失脚させるだけでなく豊臣秀次を切腹に追い込んだ。

歴史学者には容認できないところかもしれませんが、豊臣秀吉が豊臣秀次を切腹に追い込んだ理由の一番は確執説、つまり豊臣家の後継者争いであったようにも思えます。

 
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