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徳川家康の真田昌幸に対する評価は稀代の横着者だった!

上田城
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徳川家康の真田昌幸に対する評価は「稀代の横着者」

徳川家康は江戸幕府の開祖として1616年に亡くなります。

一方、真田昌幸は追放先の九度山で1611年に亡くなります。

徳川家康と真田昌幸の晩年は大きく異なっていますが、徳川家康にとって真田昌幸は目の上の瘤のような存在だったようです。

具体的に、徳川家康は真田昌幸を「稀代の横着者」と評価しています。

この記事では、徳川家康が真田昌幸をどうして「稀代の横着者」と評価していたのかについてお伝えしていきたいと思います。

徳川家康の真田昌幸に対する評価とは

真田昌幸は、天下をとった豊臣秀吉から「表裏比興の者」と評価されています。

「表裏比興の者」は戦国の世にあって弱小の勢力でしかなかった真田昌幸の天下遊泳の術を評価したもの。

「比興」は現在では「卑怯」につながりますが、この時代の比興の意味は異なっていると言われており、「表裏比興の者」は真田昌幸の老獪さを評価した言葉とされています。

一方、徳川家康は真田昌幸に対して「稀代の横着者」という評価を下しています。

稀代というのは「世にもまれなこと」。横着者というのは「よこしまな心をもった者」という意味があるとされています。

「表裏比興の者」も「稀代の横着者」も、現代でいえばどちらも褒め言葉とは言いかねるものです。

しかし実際には豊臣秀吉は真田昌幸を高く評価し、徳川家康は真田昌幸を敬遠し不信感を持っていた、そのように評価していたように見受けられます。

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徳川家康と真田昌幸の接点とは

徳川家康は真田昌幸に対して「稀代の横着者」と警戒感に満ちた評価をしています。

真田昌幸も、真田昌幸自身の事績から考えると、徳川家康を嫌っていたようにも見受けられます。

では、徳川家康と真田昌幸には具体的にはどのような接点があったのでしょうか。

徳川家康はどうして真田昌幸を「稀代の横着者」と評価するようになったのでしょうか。

真田昌幸と徳川家康に直接の接点が生まれたのは1582年。真田昌幸は武田家に仕えていましたが武田家滅亡後は織田家に仕えていました。

しかし、本能寺の変における織田信長の死で真田昌幸は再び後ろ盾を失い、ここに真田昌幸と徳川家康の接点が生まれます。

織田信長亡き後、真田昌幸は上杉、北条、徳川など次々と帰属先を変化させていきます。大国に挟まれた小国の領主としては当然のことです。

真田昌幸はこの段階で、北条氏と敵対関係にあった徳川氏に接近し、徳川家康に帰属します。

しかし、ほどなく徳川氏と北条氏は同盟を結び、和睦の条件の一つとして、徳川氏が北条氏に領地を割譲します。

ところが、その土地は真田氏が領有していたもの。この条件に激怒した真田昌幸は頃合いを図って徳川氏から離反し、上杉景勝に帰属をします。

そこで北条氏と徳川氏は、真田昌幸の居城である上田城を攻めたてます。これが1585年の第1次上田合戦で、真田昌幸は少ない勢力で敵を撃退します。

その後、天下は豊臣秀吉のものになり、真田昌幸も豊臣秀吉に帰属をします。また、豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名となります。

この時期から関ヶ原の合戦に至るまで、徳川家康と真田昌幸は関係は、表面上は悪くはなかったように見受けられます。

真田昌幸と徳川家康の間に決定的な亀裂が入ったのは1600年の関ヶ原の戦い。

真田昌幸は次男の真田幸村とともに、徳川家康の後継者となる徳川秀忠の軍と対峙します。

このときの戦いが第2次上田合戦で、真田昌幸は徳川秀忠を翻弄。徳川秀忠は肝心の関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態をしてしまいます。

もっとも関ヶ原の戦いで敗軍の将となった真田昌幸は九度山に追放。結果的に亡くなるまでこの地で過ごし大名として復活することはありませんでした。

徳川家康が真田昌幸を「稀代の横着者」と評価した理由としては、弱小の勢力でありながら大国相手に策略を弄し、帰属先を転々と変えながらも生き残ったこと。

また徳川家に戦いを挑み、戦力では比較にならないはずの徳川家が苦杯をなめさせられたこと。

そうした数々の行為により、徳川家康の真田昌幸に対する評価が「稀代の横着者」に固まったもののように思われます。

真田昌幸は1611年に亡くなります。

当然、その情報は徳川家康の耳にも入ります。

しかし、真田昌幸を「稀代の横着者」と評価していた徳川家康は、この事実も策略ではないかと疑い、容易に信じなかったと言われています。

また、1614年の大坂冬の陣のとき、真田昌幸の次男である真田幸村が豊臣家に味方をするために大坂城に入城をしています。

このときも徳川家康はすでに亡くなっているはずの真田昌幸が、本当は生きていて大坂城に入城したのではないかと疑いを持ったとされています。

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さいごに

徳川家康は天下人。一方の真田昌幸は牢人として生涯を終えています。

立場は圧倒的に異なっていますが、徳川家康にとって真田昌幸はいつまでも邪魔な存在。

そのことは「稀代の横着者」という評価に言い表されていますし、既に亡くなっている真田昌幸の死さえ疑っていたことにも表れています。

真田昌幸は武田信玄を敬愛し、豊臣秀吉にも好意を持っていたと考えられています。

一方、徳川家康に対してはまったく別の、おそらく正反対の感情を抱いていたとも考えられています。

感情は当然相手にも伝わります。

徳川家康も自分に一向になびいてこない真田昌幸に対して「稀代の横着者」と辛辣な評価をしていたというのも分からない話ではありません。

ただ、一介の牢人で生涯を終えた真田昌幸の名前が現在に伝わるのは、生涯を通しての大きな敵である徳川家康の存在があったからこそかもしれないですね。

 

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