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はじめに
この記事では、於大の方(伝通院、1528年~1602年)のプロフィールなどをご紹介します。於大の方は、江戸幕府初代将軍徳川家康の生母です。
ただ、徳川家康の人生が波乱万丈であったのと同じように、於大の方も紆余曲折の生涯を送ったようです。
果たして於大の方の一生はどのようなものであったのでしょうか。
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於大の方のプロフィール
於大の方は、1528年に水野忠政の娘として生まれます。水野忠政は尾張国知多郡の豪族で、西三河一帯を治める松平清康の領地が近くにありました。
当時は戦国時代。
勢力を維持しようと考えていた松平清康の求めに応じて、1541年、於大の方は松平清康の嫡男松平広忠の元に輿入れします。
そして1543年には、嫡男竹千代(後の徳川家康)が誕生します。
しかし、そもそもが政略結婚。水野家は水野忠政が亡くなり、於大の方の兄水野信元が後継となります。
それまでの水野家は今川氏に近く、織田家とは敵対してました。松平家も同様の状況でしたが、水野信元は今川家ではなく織田家に接近。
松平家は引き続き今川家、水野家は織田家、そして今川家と織田家は敵対関係にありました。
今川家から疑われることを恐れた松平広忠は於大の方を離縁。
於大の方は実家に戻りますが、竹千代は松平家で養育され、親子は生き別れでそれぞれの生活を送るようになります。(於大の方の離縁の理由については別の説もあるようです。)
さて、実家に戻った於大の方に待ち受けていたのは再婚の話。
水野信元は水野家の安泰を図るため、1547年に於大の方を尾張国知多郡阿古居城城主の久松俊勝に再嫁させ、於大の方は久松俊勝との間に三男三女を設けています。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれます。
桶狭間の戦いまで、徳川家康は今川家の一武将という存在にすぎませんでしたが、桶狭間の戦い以後は織田信長に接近。
徳川家康と織田信長は清洲同盟を結びます。
それまでは、今川家に近かった徳川家康と、織田家に近かった於大の方は、会うことすら難しい状況にありました。
しかし今川家が衰退したため、徳川家康は於大の方を母として迎え、久松俊勝と於大の方の間に生まれた異母弟3人に松平姓を与えて家臣に組み込みます。
一旦は安寧の時を迎えた於大の方ですが試練は続きます。
於大の方の兄水野信元は織田信長に従っていましたが、謀反を疑われ、織田信長の指示のもと徳川家康により誅殺されます。
於大の方から見たら、自分の兄が自分の子によって殺されたことになります。
また、於大の方の夫久松俊勝は、織田信長の徳川家康に対する命令を知ることなく、水野信元を徳川家康の元に案内しています。
責任を感じた久松俊勝は引退、1587年に亡くなりますが、夫の死を契機として剃髪、於大の方は伝通院と号します。
1602年、於大の方は京都の伏見城で亡くなり、遺骨は伝通院(東京都文京区小石川3丁目)に埋葬されます。
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徳川家康の3人の異父弟
久松俊勝と於大の方の間には3人の男子が生まれ、桶狭間の戦い後、徳川家康の家臣団に組み込まれています。ここでは、3人の男子について簡単に触れておきたいと思います。
松平康元 1552年~1603年
松平康元は、徳川家康の家臣として最終的には4万石の大名になります。また1600年の関ケ原の戦いでは、江戸城の留守居役の任が与えられています。松平康元は子がたくさんいて、女子は徳川家康の養女となり他家に嫁ぎ、男子は徳川家直属ではなく、徳川御三家や徳川家光の弟である徳川忠長に仕えた事例が見受けられます。
松平康俊 1552年~1586年
松平康元と同じく松平康俊も徳川家康の家臣に組み込まれます。松平康俊は34歳の頃に亡くなりますが、於大の方の願いによって、於大の方の弟水野忠分の子を養子とし松平勝政として家を存続。
松平勝政の家系は後に下総国の大名になっています。
松平定勝 1560年~1624年
三兄弟のうち、もっとも長命を保ち家を繁栄に導いたのが松平定勝です。松平定勝は1617年には伊勢桑名で11万石の領地を得ます。また2代将軍徳川秀忠の信任が厚かった武将としても知られています。
さいごに
この記事では、於大の方のプロフィールとともに、久松俊勝と於大の方の間に生まれた異母弟三人についても簡単にご紹介してきました。於大の方のプロフィールについては、ある程度のことはわかっているものの、エピソードなどはあまり伝わってません。
ただ一つ分かるのは、基本的に於大の方の生涯は受け身であることが多かったことです。
松平広忠との婚姻も、久松俊勝との婚姻も、実家である水野家の意向に沿ったものであり、於大の方の意思は感じられません。
しかし、於大の方はそれぞれの家で男子を産み後継者を残した。その中の一人が天下を取り将軍の座に昇りつめた。
もちろん於大の方には、相当な苦労があったことは想像に難くありませんが、受け身の人生が結果的に大きな花を咲かせた。
於大の方は、自らの人生をどのように思っていたのでしょうか。
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