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織田信長の子孫はどうなったの
織田信長は、約100年続いた戦国時代の幕引きをした武将としてあまりにも有名です。しかし、織田信長は生まれながらの大大名ではありませんでした。
織田信長の偉業を受け継いだ豊臣秀吉ほどではありませんが、いわゆる成り上がり。
戦国時代を終わらせるために突如現れ、本能寺の変で劇的な生涯を閉じた。
そんな英雄だけに、今でも多くの歴史ファンに愛されています。
ところが、織田信長の子孫については、ほとんど語られることはありません。
織田信長の子孫として有名なのは、長男、次男、三男あたりまででしょうか。
織田信長は少なくとも11人の男子を残しています。
しかし三男までの3人以外はあまり知られていませんし、孫の代に至ってはそのほとんどが歴史の表舞台に登場をしていません。
この記事では、織田信長の子孫がどうなったのか。
そして、元フィギュアスケートの選手であった織田信成氏は織田信長の子孫なのかについて、少しばかり調べてみました。
織田信長の子どもたち1
織田信長の子孫について存在が明らかになっているのは次の11人です。
長男 織田信忠
次男 織田信雄
三男 織田信孝
四男 織田秀勝
五男 織田勝長
六男 織田信秀
七男 織田信高
八男 織田信吉
九男 織田信貞
十男 織田信好
十一男 織田長次
次男 織田信雄
三男 織田信孝
四男 織田秀勝
五男 織田勝長
六男 織田信秀
七男 織田信高
八男 織田信吉
九男 織田信貞
十男 織田信好
十一男 織田長次
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長男 織田信忠
織田信忠は1555年に生まれたとされています。生年は諸説ありますが、亡くなったのは1582年とはっきりとしています。織田信忠は織田信長の後継者でしたが、本能寺の変で織田信長と共に生涯を閉じています。
織田信忠には、1580年に生まれた織田秀信と、1581年に生まれた織田秀則の2人の男子がいました。
織田秀信は織田信忠の死後、豊臣秀吉に担がれて織田家の後継者となります。
天下は豊臣秀吉のものになりましたが、織田秀信も岐阜城主として大名の地位を保ちます。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍についたことから、戦後は領地を没収され高野山に追放。その後、1605年に病死または自害したとされています。
なお、織田秀信には織田秀朝、織田恒直と2人の男子がいたという伝承もありますが、公式の記録には残ってはいないようです。
織田秀則は兄織田秀信と共に関ヶ原の戦に臨み、戦後は大阪、京都に住み1625年に亡くなります。
織田秀則に男子の子はいなかったようです。
次男 織田信雄
織田信雄は、1558年に生まれ1630年に亡くなります。織田信雄は本来は三男で、三男の織田信孝が本当は次男という説があります。
しかし母親の身分の差から、織田信雄が次男、織田信孝が三男になったと言われています。
そのため織田信雄と織田信孝は仲が悪く、本能寺の変後の織田家没落につながったとも考えられています。
織田信雄は暗愚で知られていました。そのため一時は100万石を領するも、豊臣秀吉の逆鱗に触れ改易。
一時は所領のすべてを失いますが、その後、徳川家康の取り成しもあり1万8000石の大名に復帰します。
暗愚であるがゆえに妙な野心を持つこともなく、所領を大きく減らしながらも大名として生き残ったのかもしれません。
織田信雄は大名として江戸時代も生き残ったため、多くの子孫に恵まれています。
その中で4男の家系は出羽天童藩主、5男の家系は丹波柏原藩主、小さいながらも大名として明治維新まで藩主の地位を保っています。
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三男 織田信孝
織田信孝は、1558年に生まれ1583年に亡くなります。織田信孝は織田信雄よりも評価されていましたが、織田家の相続争いの中で羽柴秀吉に敗れ切腹に追い込まれています。
織田信孝には子孫を名乗る家系がいくつかありますが、その真偽は定かではないようです。
四男 織田秀勝
織田秀勝は織田信長の4男というよりも、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子として知られています。1568年に生まれますが1586年に病死。18歳という若さから子はいなかったようです。
五男 織田勝長
織田勝長は、1565年に生まれ、1582年の本能寺の変で織田信忠とともに討死をします。その子の織田勝良は、後に津田勝良と名を改め、加賀の前田氏に仕えたとされています。
六男 織田信秀
織田信秀は織田信長の父である織田信秀と同名。命名には何かしらの理由があるようにも思われますが、生没年ははっきりとしてません。豊臣秀吉よりは早くに亡くなっているようで、20歳代で病気で生涯を閉じています。
子は2男1女いたようですが、父である織田信秀の所領を相続した者がいないためその後は定かではありません。
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織田信長の子どもたち2
七男 織田信高 織田信成氏は子孫なの
織田信高は、1576年に生まれ1603年に亡くなります。織田信高は豊臣政権下では約2000石を領していましたが、関ヶ原の戦いでは西軍についたとして所領没収。
しかしその後、織田信高の子である織田高重の代に徳川家の旗本として2000石を領し、さらにその子孫が高家として厚遇され明治維新を迎えます。
織田信高の家系は所領は少ないながらも、江戸時代を通じて由緒ある家柄として尊重されていたことがわかります。
なお、元フィギュアスケート選手の織田信成氏は織田信高の子孫と伝えられています。
しかし、織田信成氏が織田信高の子孫であるという明確な証拠はないとも言われています。
織田信成氏が織田信高の子孫というのは、織田信成氏の家に伝えられている伝承なのかもしれないですね。
八男 織田信吉
織田信吉は、1573年に生まれ1615年に亡くなります。生年を見ると七男の織田信高よりも早くに生まれています。これは織田信雄と織田信孝と同じように母の身分が影響していると考えられています。
豊臣政権下では2000石を与えられますが関ヶ原の戦い後に改易。その後は剃髪し京都で亡くなります。
なお、織田信吉の子孫は水戸に移り津田姓を名乗ったとされています。
九男 織田信貞
織田信貞は、1574年に生まれ1624年に亡くなります。織田信貞は豊臣政権下で1000石を与えられるものの関ヶ原の戦いで改易。しかし、大坂の陣で徳川家につき戦後は所領を得ます。
なお、織田信貞の子孫は尾張徳川家の家臣や徳川家の旗本として命脈を保っています。
十男 織田信好
織田信好は生年不詳、1609年に亡くなります。豊臣秀吉の家臣になったようですが、その事績や子孫は明らかではありません。
十一男 織田長次
織田長次は生年不詳、1600年に関ヶ原の戦いで討死します。子孫についてははっきりとはしていません。
まとめ
天下布武の名の元、天下統一の一歩手前までいった織田信長。
織田信長は戦国時代の英雄。そして男子だけでも11人の存在が確認されているのに、その子孫については華やかさが一切感じられません。
その理由はいくつかあります。
まず、織田信長が横死したときに、長男の織田信忠と五男の織田勝長は討死。
後継者と目されていた次男の織田信雄と三男の織田信孝は織田信長の跡目争いの中で共倒れ。
結果的に織田信孝は切腹に追い込まれ、織田信雄は江戸時代まで生き残りはしたものの所領を大幅に減らされています。
また、織田家の後継者の織田秀信は関ヶ原の戦いで西軍につき所領没収。
そして、織田信長の他の子も西軍についた者が多かったため、その後の子孫の行方については明らかでない場合が多いようです。
早死にした者、所領を没収されたもの。織田信長の活躍があまりにも華やかだったため、子孫の動向には一抹の寂しさを感じます。
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