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犬伏の別れが真田一族の運命を決めた!

犬伏の別れが真田一族の運命を決めた

この記事では、「犬伏の別れが真田一族の運命を決めた」をテーマに書き進めていきます。

ところで、「犬伏の別れ」。

あまり馴染みのない言葉なので読み方も難しいですね。

そこで本題に入る前に読み方からご案内をしていきます。

「犬伏の別れ」の読み方は「いぬぶしのわかれ」。ちなみに犬伏というのは場所を示しています。

それでは、ここから本題に入っていきます。

戦国時代が終わりを迎え、豊臣秀吉が天下統一を果たしましたが、豊臣秀吉亡き後は徳川家康が台頭してきます。

豊臣家から徳川家に政権が移る過程で起こったのが1600年の関ヶ原の戦い。戦国時代を生き残った大名もここでもう1回厳しい選択を行わざるを得なくなります。

それは豊臣につくか、徳川につくかということで、その選択は真田一族にとっても例外ではありませんでした。

真田一族がその選択をした場所が犬伏。犬伏の場所は現在の栃木県佐野市で、犬伏で真田一族の行った会議が後世、犬伏の別れと言われるようになります。

真田一族が会議をしたのは犬伏。でも犬伏の会議ではなく、犬伏の別れと言われています。それは犬伏の会議の結果、真田一族が2つに分かれ、敵味方として戦うことになったためです。

戦いには勝者と敗者が生まれます。勝った者は大名として子孫を残し、負けた者は死罪こそ免れたものの追放の憂き目にあいます。

この記事では、犬伏の別れがどのように真田一族の運命を決めたのか。

より具体的には犬伏の別れで、その後の真田昌幸、真田信幸、真田信繁の運命がどのようになっていったのかについてを簡単にお伝えしたいと思います。

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犬伏の別れが生まれた背景とは

1598年に豊臣秀吉が亡くなります。その瞬間、天下取りの野望を露わにしたのが、豊臣政権下で五大老の一人として重きをなしてきた徳川家康です。

徳川家康は豊臣秀吉在世中の決まりを次々と破っていきます。

多くの武将は異を唱えることもできませんでしたが、一人、徳川家康を強く責めたのが同じく豊臣政権下で五奉行の一人として権力を握っていた石田三成です。

徳川家康と石田三成の反目は誰の目にも明らかですが、騒ぎが起こったのは会津の上杉景勝です。

上杉景勝は徳川家康とは反目しており、徳川家康の上洛命令に従おうとしませんでした。そこで、徳川家康は諸将を引き連れて会津征伐に乗り出します。

実は石田三成と上杉景勝やその家臣直江兼次とは懇意の間柄。

そのため、上杉景勝の行動も石田三成と示し合わせたうえでの行動と言われていて、徳川家康自身もそのことを気がついていたと言われています。

徳川家康の軍勢が小山に着陣するころ、今度は西国で石田三成が打倒徳川家康を旗印に挙兵をします。

このとき徳川家康が行ったのが小山評定です。

この時、真田一族は何処にいたのでしょうか。

真田一族は徳川家康の命により会津討伐に加わっていました。

また、石田三成は挙兵と同時に多くの武将に書状を出して、味方につくようにと勧誘をしていますが、この書状は真田一族の元にも届きます。

真田昌幸が石田三成の書状を受け取った場所が犬伏。

そこで真田昌幸は、嫡男の真田信幸、次男の真田信繁とともに犬伏で会議を行います。それが犬伏の別れが生まれる背景となりました。

犬伏の別れと真田一族の選択

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真田一族の当主は真田昌幸。

真田昌幸が何よりも考えたのは真田一族の存続でした。

真田家は真田昌幸の父である真田幸隆が信州での地歩を確立しています。もっとも真田家は信州の一国人に過ぎず、家の安泰は常に周囲の大きな大名に依存する状態でした。

真田家が仕えたのは武田家、織田家、上杉家、北条家、徳川家、豊臣家。時代の変遷とともに仕える大名は異なってはいるものの、常に近隣の大名に寄り添う存在。

そうしたことが常になっているため、犬伏の会議において真田昌幸が第一に考えたのが真田家の存続でした。

たとえば真田昌幸の弟に真田信尹がいます。

真田信尹は兄の真田昌幸の近くにあって補佐をしなければいけないはずです。しかし真田信尹は早い時期から真田昌幸の元を離れ徳川氏の旗本になっています。

また、真田昌幸は最終的には追放をされた九度山でその生涯を終えたのに対し、真田信尹の家は旗本として江戸時代を生き延びています。

真田昌幸と真田信尹は不仲だったわけではなく、真田信尹は徳川家の情報を真田昌幸の元に届ける役割を担っていたとも言われています。

何よりもはっきりと分かるのは、真田昌幸は追放先で亡くなったのに対して、真田信尹は江戸時代も生き残った。

ここに真田一族の真田家を残そうという強い意志を感じることが出来ます。

犬伏の別れも基本的には同じ。

真田一族のある者は徳川家につき、ある者は石田三成に味方をする。こうしておけばどちらか一方は必ず生き残ることが出来る。

では、犬伏の別れで具体的に真田一族はどのような選択をしたのでしょうか。

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真田信幸の選択

真田信幸は真田昌幸の嫡男です。

犬伏の別れでの真田信幸の選択は、徳川家康につくというものでした。

真田信幸が徳川家を選んだ大きな理由は縁戚関係にあったと言われています。

真田信幸の正室は小松姫。小松姫は徳川四天王の一人である本多忠勝の娘。また、小松姫は真田信幸に嫁ぐに際して、徳川家康の養女にもなっています。

真田信幸自身の性格や考え方というのもあるのでしょうが、やはりこの縁戚関係が最大の理由となり、真田信幸は徳川家康についたと考えられています。

真田信繁の選択

真田信繁は真田昌幸の次男。一般には真田幸村の名前で知られています。

兄の真田信幸同様、真田信繁にもある武将との縁戚関係がありました。

真田信繁の正室は竹林院で、竹林院は大谷吉継の娘です。また大谷吉継は石田三成の数少ない友人の一人として関ヶ原の戦いでは西軍につき壮絶な討死を遂げています。

縁戚関係という観点で考えたら、真田信繁が西軍につくのは当然のことかもしれません。

また、真田信繁は次男。

真田家を継ぐ存在ではなかったので、周辺の大名へ人質に出されることもありました。真田信繁が人質に出されたのが上杉景勝と豊臣秀吉です。

真田信繁が上杉家に人質に出されたことにより、真田信繁は上杉景勝やその家臣直江兼続と知己を得ます。

また、真田信繁が豊臣家に人質に出されたことにより、真田信繁は豊臣秀吉やその家臣石田三成と知己を得ます。

関ヶ原の戦いのきっかけは徳川家康の上杉景勝つぶし。また、直江兼続と石田三成には打倒徳川家康という共通の目的もありました。

真田信繁には縁戚関係だけでなく、豊臣家や上杉家と深い結びつきがあった。真田信繁が西軍につくのは当然の事であったのかもしれません。

真田昌幸の選択

では、真田昌幸はどうだったのでしょうか。

真田昌幸も石田三成とは遠い縁戚関係にあったとされています。しかし、真田昌幸はその程度のことで判断をするような人物ではありません。

真田昌幸は結果的に真田信繁と共に西軍につきますが、その判断は一筋縄ではいかなかったようです。

まず、真田昌幸には真田家を残すという大命題がありました。

そこで、真田家の当主を考えると、現在の当主は真田昌幸、次の当主は真田信幸。真田家の嫡流を残すためには真田昌幸と真田信幸は袂を分かつことがむしろ望ましいことでした。

また、真田昌幸は策略家。周辺の大名を巧みに操りながら生き延びてきた武将です。

しかし、どうしても上手く操れず、かえって煮え湯を飲まされてきた大名もありました。

それが徳川家康です。

真田昌幸は豊臣秀吉の命により徳川家康の与力大名とされてきた時もありましたが、元来、真田昌幸は徳川家康が嫌い。

こうした好悪の感情も大きく影響したように思われます。

さらに真田昌幸は策略家であり、戦国時代を縦横無尽に、思うがままに行動することを生きがいにしてきたような武将です。

その真田昌幸が徳川家康に従ったらどうなるのでしょうか。

徳川家康は小さいころ今川義元の人質として苦労してきたとはいえ元々が大名。徳川家康には譜代の家臣が多数いました。

また、徳川家康が勢力を伸ばすにつれ、さらに有能な武将も増えてきました。

徳川家康の元には本多忠勝など武略に秀でた者、あるいは本多正信のように策略に秀でた者。そうした優秀な人材が数多くいました。

真田昌幸がいくら有能でも真田昌幸が入り込む余地などはありませんでした。

一方、当時の豊臣家はどうだったでしょうか。

中心の豊臣秀吉は既に亡くなっています。豊臣秀吉亡き後も豊臣家を支えることを期待された武将は2人いました。それが徳川家康と前田利家です。

しかし、徳川家康は豊臣家に代わり天下を治めようとし、前田利家は豊臣秀吉の後を追うように亡くなっています。

関ヶ原の戦いの前夜において、豊臣家を支えられるだけの人物はいなかった。仮に関ヶ原の戦いで西軍が勝てば、真田昌幸が入り込み活躍できるチャンスはいくらでもある。

真田昌幸は策略家であるとともに、そうした夢を追いかける人物だとしたら。。。

真田昌幸にとって当時の豊臣家はとても魅力のある対象であったはずです。

さいごに 犬伏の別れ後の真田一族の運命とは

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犬伏の別れで真田一族はそれぞれの運命を担うことになりました。

関ヶ原の戦いは東軍の勝利。つまり、真田昌幸と真田信繁は敗者となりました。

徳川家康の戦後処理は苛烈で、真田昌幸と真田信繁は死罪になるはずでした。しかし、真田信幸とその義父である本多忠勝の尽力で、真田昌幸と真田信繁は紀州九度山に追放。

真田昌幸は1611年九度山で生涯を終えています。

同じく九度山に追放された真田信繁はどうだったのでしょうか。

真田信繁は1614年大坂冬の陣が起きる前に豊臣家からの勧誘を受けます。勧誘を受けた真田信繁は厳しい監視の目を潜り抜けて九度山を脱出し大坂城に入城。

大坂冬の陣では真田丸を設けて押し寄せる徳川軍を撃退するも、講和により真田丸は破却。1615年に起こった大坂夏の陣で壮絶な討死を遂げます。

では、真田信幸はどうだったのでしょうか。

真田信幸は関ヶ原の戦い後、真田家に伝わる「幸」の字を捨て、信幸から信之に改名をします。

真田信之は生き残るため徳川家に忠誠を誓います。

その結果、信州でもあまり馴染みのなかった松代藩に移封を命じられるも約10万石の大名となります。

真田信之が亡くなったのは1658年。なんと93歳です。

また、真田信之が残した信州松代藩は紆余曲折がありながらも明治維新まで続いています。

犬伏の別れが真田一族の運命を決めました。

犬伏の別れにより、それぞれの運命はまったく別のものになりましたが、それでも真田一族の血を残すことが出来た。

そうした意味でも犬伏の別れというのは、真田一族にとってとても大切な、しかも意味の深いものであったようです。


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