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茶々(淀殿)はどんな性格?悪女だったの?

茶々(淀殿)はどんな性格?悪女だったの?

天下人である豊臣秀吉の側室になるまでは茶々。側室になってからは淀殿。

この記事では、茶々(淀殿)はどのような性格だったのかを、その生い立ちから考えてみたいと思います。

また、茶々(淀殿)を悪女。中には日本三大悪女という人もいますが、果たして茶々(淀殿)は悪女だったのでしょうか。このあたりも考えてみたいと思います。

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茶々(淀殿)の生い立ちと性格

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茶々(淀殿)については、亡くなった年月日は明らかですが、生年ははっきりとしていません。

また、女性であること、歴史上の敗者であったことから、事績が明らかでない部分も多く、性格もはっきりとは伝わってきてはいません。

ただ、茶々(淀殿)の生い立ちを考えると、茶々(淀殿)の性格も何となく浮かび上がってくる。そんな気もします。

では、茶々(淀殿)の生い立ちを確認しながら性格を考えてみたいと思います。

茶々は1569年生まれとする説が有力です。父は戦国大名の浅井長政。母は戦国時代きっての美女と言われたお市の方。このお市の方は、あの織田信長の妹です。

織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り上洛の念を抱いたときに、どうしても味方にしておきたかったのが、織田信長の尾張国から京都に向かう通り道に当たる近江の浅井長政でした。

そのため織田信長はお市の方を政略結婚させ浅井長政に嫁がせます。

もっとも政略結婚とはいえ浅井長政とお市の方の夫婦仲はとてもよく、2人の間には長女の茶々、次女の初、三女の江の3人の娘が誕生しています。

なお、浅井長政には嫡男の万福丸がいますが、どうやらお市の方が正室として嫁ぐ前に生まれた子。浅井長政とお市の方の間に生まれた子ではないようです。

茶々は生まれながらのお姫様。また、長姉になるので、今でいうならばしっかり者のセレブ。茶々の性格はそんな感じだったのではないでしょうか。

もっとも茶々の幸せは長くは続きません。

父の浅井長政と、茶々にとっては叔父にあたる織田信長が敵対関係に陥り、結果的に浅井長政は自害に追い込まれ、居城の小谷城は落城します。

茶々は人生の中で三度の落城を経験しますが、これが最初の落城。この落城によって茶々は実の父を失います。

浅井長政が自害をしたのは1573年なので、このときの茶々は4歳又は5歳であったと考えられています。

丁度、物心が生まれるころ、実の父を失った。しかも父の命を奪ったのは叔父であった。

どの程度かはわかりませんが、茶々の性格に何か影響を及ぼしたとしても不思議ではありませんし、落城の悲惨さは脳裏に焼き付いたのではないでしょうか。

その後の、茶々は母のお市の方や妹たちと共に織田信長に庇護されるようになります。茶々にとっては命の危険を考えなくてよい安心できる時間だったのかもしれません。

しかし、1582年に本能寺の変が起こり、最大の庇護者だった織田信長が亡くなると状況は一変します。

織田信長が亡くなった後、すぐに発生したのが後継者争い。

織田家の有力武将の中では、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家の対立が深刻化し、この過程でお市の方は柴田勝家と再婚をします。

柴田勝家の居城は越前国北ノ庄城。お市の方と共に茶々など三姉妹も同地に移ります。しかし、そこでの生活も短期間に終わります。

約1年間の生活の後、柴田勝家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められ自害。このとき母のお市の方も自害をしたので、茶々たち三姉妹はここで実の母も失うことになります。

お市の方が自害したときの茶々の年齢は15歳前後。1回目の落城で父を失い、2回目の落城で母を失う。

さらに2回目の落城の時は、はっきりといろいろなことが分かる年齢。

茶々の心の中には、言いようもない悲しさが生まれ、それが多分に茶々の性格に影を落としたのは容易に想像できるところです。

さらに茶々には皮肉な運命が襲い掛かります。

父も母も失った茶々たち3人の姉妹を庇護したのは、あろうことか母を自害に追い込んだ豊臣秀吉です。

しかし、豊臣秀吉に逆らえば、そこに残るのは死のみ。このときの茶々の心境は分かりませんが、茶々は死ではなく生を選びます。

父や母の悲惨な死を目の前に見てきただけに、一層のこと、生に対する執着が強かったのかもしれません。

そして、茶々の一生を決めてしまう大きな出来事が発生をします。

それは茶々が母の仇である豊臣秀吉の側室になったことです。茶々に豊臣秀吉の側室になるという発想はなかったのかもしれません。当然、これは豊臣秀吉の考えに基づいたものです。

しかし、一方で茶々は豊臣秀吉の側室になるのを是とした。これは、そうしなければ生きていけないと考えたためのか、あるいは豊臣秀吉の元で優雅な生活を送りたいと考えたのか。

考えとしてはまったく正反対なのですが、果たしてどちらだったのでしょうか。

豊臣秀吉の側室となった茶々は1589年に鶴松を産みます。このことを契機として茶々は豊臣秀吉から山城国淀城を与えられ、これ以降は淀殿などと呼称されるようになります。

長子鶴松は早世しますが、さらに豊臣秀吉と淀殿の間には、後の豊臣秀頼が誕生。淀殿は側室ながらその地位を確固たるものにします。

1598年には豊臣秀吉が亡くなり、1600年には関ヶ原の戦い。関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したことで、豊臣家は天下人ではなく一大名の地位に転落をします。

しかし、豊臣家が滅亡したわけではなく、幼い豊臣秀頼の代わりに母である淀殿が豊臣家の実権を握っています。

ここまでの経歴から、この段階までの茶々(淀殿)の性格を考えてみたいと思います。

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淀殿の性格は

・ 戦国大名の娘に生まれており、いわゆるお嬢様の性格であった。

・ 三姉妹の長姉として、しっかりとした性格であった。

・ 父母を2度の落城の中で失い、母の仇である豊臣秀吉の側室となることを受け入れた。他には計り知れない屈折した心が生まれるのは当然であるし、生への執着が強い性格がうかがえる。

とりあえずは豊臣家を保っていた淀殿ですが、いよいよ最期のときが訪れます。

1614年大坂冬の陣、1615年大坂夏の陣で、さしもの大坂城も落城し、このとき淀殿も豊臣秀頼も自害をします。

大坂冬の陣では、豊臣家と徳川家は互角の戦い。むしろ豊臣方が優勢と思われていました。

しかし、徳川家康は淀殿のいるあたりをめがけて、大砲を打ち込みます。この大砲の音などに怖気づいた淀殿は、諸将の反対を押し切り徳川家と和睦。

この和睦で大坂城は堀を埋められ裸城になり、結果的に大坂夏の陣で落城します。

大坂城は堅固な城で籠城に適しています。また、有能な武将も多く、士気も盛んでした。さらに敵である徳川方にも豊臣家に思いを馳せる武将はたくさんいます。

時間をかけても大坂城が落城しなければ、その後の戦局が変わってしまう可能性は十分にありました。

大坂城が落城に至ったのは、女性である淀殿が実権を握り続けていたこと。その淀殿には2度の落城の経験から砲弾などに対する強いトラウマがあったこと。

そして、そうした淀殿の性格を徳川家康がある程度知っていたこと。

淀殿の性格の中に、砲弾の威力や音を恐れる部分がなければ、豊臣家の滅亡を避けることが出来た可能性は十分にあります。

そう考えると、淀殿の性格が豊臣家を滅ぼしたというのも、あながち否定はできないのかもしれません。

淀殿は悪女なの?

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淀殿は豊臣家を滅亡に追い込んだ。さらにいろいろなことの積み重ねで淀殿を悪女と考える人は多いようです。

また、なかには淀殿を日本三大悪女の一人にあげる人もいるようです。

この日本三大悪女の三人は必ずしも確定的ではありませんが、1人目は鎌倉時代の北条政子、2人目は室町時代の日野富子、そして淀殿というのが一般的です。

日本三大悪女については確定的ではなく、むしろ最近では見直しの機運もあるようなので、北条政子や日野富子についても今後は見方が変わるかもしれません。

では、淀殿はどうでしょうか。

確かに淀殿は前述のとおり豊臣家を滅亡に追い込んだ張本人とされています。

でも、これは相手が徳川家康。豊臣秀吉さえも苦しめた徳川家康はその時代の第一級の人物。
多少の器量で太刀打ちできるはずもありません。

また、現実問題として淀殿は生まれてから亡くなるまで、基本的にはお姫様。世間の事情に通じているはずもなく、普段、接しているのも限られた家臣ばかり。

これでは資質を磨けと言っても無理があります。

またこうした環境は、好むと好まざるにかかわらず、淀殿に与えられたもの。その是非を考える習慣さえ淀殿にはなかったはずです。

こうしたことを考えると、淀殿は単なる世間知らずの女性。悪女という範疇に入るような女性ではなかったと考えられますし、当然、日本三大悪女でもありません。

淀殿が豊臣家を滅亡に追い込んだのは、淀殿の2度の落城経験からくる臆病な性格。ただ、それだけであったようにも思われます。

しかし、歴史の中に名前を残した女性の中でも、一際、数奇な人生を送ってしまった。それが、茶々(淀殿)であったようにも思われます。


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