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結論を先に書いてしまうと、明治維新3傑の一人である木戸孝允(きどたかよし)は、桂小五郎(かつらこごろう)と同一人物です。
幕末に長州藩の志士として活動していた桂小五郎は、明治維新を迎える直前に木戸孝允と改名をしています。
この記事では、桂小五郎がどうして木戸孝允に改名をしたのか。
改名の経緯や理由について、お伝えをしていきます。
目次
木戸孝允改名の経緯とは
木戸孝允は、一般的には「きどたかよし」と読みますが、「きどこういん」と読まれることもあります。ところで、桂小五郎と木戸孝允は同一人物で、桂小五郎が改名して木戸孝允になってはいますが、桂小五郎からすぐに木戸孝允になったわけではないようです。
まずは、生涯で複数回の改名を行っている木戸孝允の改名の経緯について、お伝えをしていきます。
1833年 0歳
長州藩の藩医である和田昌景の長男として生まれ、和田小五郎となる。
1840年 8歳
長州藩の藩士である桂家の養子となり、桂小五郎となる。
1846年 15歳
元服し桂小五郎孝允となる。小五郎は通称(または仮名 けみょう)、孝允は諱(いみな)。
1866年 33歳
主君の毛利氏より木戸姓を与えられるとともに通称も変え、木戸貫治孝允となる。また、その後に通称を変え、木戸準一郎孝允となる。
1868年 35歳
明治維新後、木戸孝允となる。
1877年 43歳
死去
※ 年齢については推計も含みます。
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木戸孝允が改名を続けた理由とは
それでは、前述の「木戸孝允の改名の経緯」に基づいて、改名の理由について簡単にご案内をしていきます。
和田小五郎が桂小五郎に改名した理由
木戸孝允は、元々は和田家の嫡男。本来であれば、和田家の後継者で医者になる立場でした。しかし、和田小五郎は病弱であったため、和田家は婿養子を迎えて、その人物を後継者にしています。
一方、和田家の近所にあったのが桂家。
桂家の当主は桂九郎兵衛でしたが、まさに死を迎えようとしていました。しかし、桂家には後継者がいない。
桂家の当主が亡くなり後継者がいなければ、桂家は断絶してしまいます。そのため、桂家は和田家に相談をして小五郎を養子に迎えます。
この段階で和田小五郎は、桂小五郎になるとともに武士の身分を得ることになります。
桂小五郎が桂小五郎孝允に改名した理由
桂小五郎が桂小五郎孝允になった理由は元服にあります。元服後に名乗るのが「諱(いみな)」です。
諱の由来については複数の説があるようなので詳細な記述は避けますが、一般的に言えば通常利用するのは通称(仮名 けみょう)で、諱は使わないものとされていました。
したがって元服後は桂小五郎孝允が正式なものだとしても、一般的には桂小五郎の名前で認知をされていました。
桂小五郎孝允が木戸貫治孝允に改名した理由
桂小五郎孝允が桂姓から木戸姓になったのは、主君の毛利敬親より木戸姓を与えられたからです。桂小五郎孝允が木戸貫治孝允となったのは、第2次長州征討の直前と考えられています。
幕末、長州藩は江戸幕府と敵対をしていましたが、その結果として起こったのが第1次長州征討です。
第1次長州征討は幕府軍が長州藩に攻め込んだ戦いですが、結果的に長州藩は敗戦。
当時の藩の中心人物が次々と失脚していき、長州藩そのものも幕府に恭順するようになります。
幕府に恭順する長州藩の体制に反抗をしたのが、長州藩の高杉晋作。
高杉晋作はクーデーターを起こすとともに、それまで幕府の追及を逃れて潜伏をしていた桂小五郎を長州藩に呼び戻し長州藩の中心に置きます。
その後、起こったのが再び幕府の意向に逆らい始めた長州藩の征討で、ここに第2次長州征討が始まります。
その第2次長州征討の直前に、桂小五郎は木戸姓を与えられます。
この理由はいくつか考えられているようですが、もっとも有力なのは幕府にとって桂小五郎はお尋ね者であったこと。
それまでの桂小五郎は京都等で反幕の姿勢を保ち続け、幕府から危険人物として常に命を狙われる存在でした。
その桂小五郎が長州藩の中心にあることが分かれば、長州藩は何の言い訳もできなくなりますし、そもそも桂小五郎自身の命が危ない。
要は幕府の目をごまかすために、桂小五郎孝允は木戸貫治孝允になった。
そのように考えられています。
なお、木戸貫治孝允が通称を変えて木戸準一郎孝允となった時期は定かではありません。
木戸準一郎孝允が木戸孝允に改名した理由
明治になると、それまで認められていた諱と通称の併用が認められなくなりました。このとき、諱を使うか、通称を使うかは任意であったようですが、木戸準一郎孝允は通称ではなく諱を使うようになりました。
そのため、この改名後は生涯を通じて木戸孝允を名乗ることになります。
ちなみに諱を使った人物としては、大久保利通や伊藤博文などがいます。
大久保利通は大久保一蔵とは名乗りませんでしたし、伊藤博文も伊藤俊輔とは名乗っていません。
一方、板垣正形は正形という諱ではなく、通称を名乗り板垣退助となります。また、江藤胤雄も胤雄という諱ではなく、通称を名乗り江藤新平となっています。
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まとめ
桂小五郎と木戸孝允は同一人物ですが、その生涯で複数の改名を行っているため、同一人物であることをわかりにくくさせているようです。
それでは、この記事のまとめとして、木戸孝允の改名の理由を改めて振り返っておきたいと思います。
幼少期、和田小五郎が桂小五郎となったのは養子となったため。
桂小五郎が桂小五郎孝允となったのは元服をしたため。
この2度の改名も理由があってこそですが、特に切実な問題とは言えません。
それに対して、桂小五郎孝允が木戸貫治孝允・木戸準一郎孝允になった理由は、時の世情が大きく影響をしています。
倒幕の直前に幕府に対して反旗を翻した薩摩藩と異なり、長州藩はより早い時期から幕府にとっての抵抗勢力でした。
そのため、長州藩士で倒幕の動きに携わった志士たちの多くは、明治維新の前に命を落としています。
言い換えれば、長州藩の志士で生き残りを図るためには細心の注意を払う必要がありました。
木戸孝允は剣術の達人として知られていました。しかし、木戸孝允の場合、敵に直接ぶつかって戦うことを極力避け、危険が迫れば逃げることを大切にしてきました。
そのため、木戸孝允は「逃げの小五郎」とも言われていました。
もっとも細心の注意を払って、逃げるだけではなく改名も繰り返したからこそ、木戸孝允が明治維新を無事に迎えることができたのではないでしょうか。
※ 木戸孝允は幕府の追及を避けるために、今回ご紹介した以外でもさまざまな偽名を使ったと言われています。
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