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はじめに
この記事では、いだてん、あるいはマラソンの父と呼ばれた金栗四三(かなくりしそう)の生涯をご案内していきます。また、金栗四三のエピソードでとりわけ有名なのは、金栗四三の出場したマラソン大会の結果。金栗四三は、あるマラソン大会でとてつもない記録を残しています。
それでは、金栗四三の生涯と、今後も絶対に破られないであろう金栗四三のマラソンの結果を簡単にお伝えしていきます。
金栗四三の略歴
それでは、年表形式で金栗四三の生涯をご案内します。1891年(明治24年) | 熊本県玉名郡和水町(なごみまち)に生まれる |
1901年(明治34年) | 玉名北高等小学校に入学する |
1905年(明治38年) | 玉名中学校に入学する |
1910年(明治43年) | 東京高等師範学校に入学する |
1911年(明治44年) | ストックホルム大会(第5回オリンピック)の予選会に参加する |
1912年(明治45年) | ストックホルム大会に出場 |
1920年(大正9年) | アントワープ大会(第7回オリンピック)に出場 |
1920年(大正9年) | 四大専門学校対抗駅伝競走開催に尽力する |
1924年(大正13年) | パリ大会(第8回オリンピック)に出場後に引退 |
1967年(昭和42年) | ストックホルム大会開催55周年記念式典に出席 |
1983年(昭和58年) | 死去(92歳) |
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生まれてから中学まで
金栗四三は、8人兄弟の7番目の子供です。「四三」という珍しい名前は、金栗四三が生まれたときの父の年齢が43歳であったためです。後にマラソンの父と言われる金栗四三ですが、幼少時はむしろ病弱であったようです。金栗四三が大きく変わったのは小学校に入学してから。
金栗四三が生まれ育ったのはのどかなところで、近くに小学校などもありません。金栗四三が通った玉名北高等小学校は自宅から約6kmの場所で、しかも山の上にありました。
金栗四三は学校へ行くまでの6㎞の道を上り通学し、6㎞の道を下り家に帰る。また、その通学の方法は近所の子供たちと一緒に駆け足で上り下りする。このことが後にマラソンの父と言われる金栗四三の土台を作ったといえそうです。
また金栗四三は「いだてん」とも称されますが、いだてんは往復12kmの通学路を走りぬける姿からつけられたものともいわれています。
成績の良かった金栗四三は、高等小学校を卒業した後は玉名中学校に進学。玉名中学校でも成績が良かった金栗四三は、さらに東京高等師範学校に進学し、マラソンランナーとしての才能を開花させていくことになります。
※ いだてんとは
いだてんは漢字で韋駄天と書きます。韋駄天はインドの神様で足の速いことで知られていて、転じて足の速い人をいだてんと称するようになりました。
高等師範学校からストックホルム大会まで
金栗四三のマラソンの才能が開花するのは高等師範学校に入学してからと考えられます。1年生の秋に校内マラソン大会に参加したところ出場者の中で3位の成績。
翌1911年(明治44年)にはオリンピック出場のための予選会が東京羽田で開催され金栗四三も出場。距離は25マイル(40.2336km)で金栗四三の記録は2時間32分45秒。当時の世界記録を約27分も上回る大記録で、金栗四三はストックホルム大会の出場を果たします。
1912年(明治45年)の第5回オリンピックストックホルム大会には、嘉納治五郎を団長として、選手はマラソンの金栗四三と短距離の三島弥彦。日本からは船とシベリア鉄道で17日間の長旅をして、ストックホルムに到着をします。
金栗四三はマラソン競技に参加をしますが、長旅の疲れとなれない環境。さらには当日の暑さも加わって26km付近で落伍。そのため、金栗四三は初めてのオリンピックを「結果なし」で終えています。
もっとも、このことが金栗四三がオリンピックのマラソン大会で、とてつもない記録を残す端緒ともなっています。
なお、このマラソン大会では出場選手68人中、完走したのはちょうど半分の34人。さらには死者も出してしまうほどの過酷なレースでした。
ストックホルム大会後から現役引退まで
ストックホルム大会後も金栗四三はマラソンに打ち込みます。そして、次の大会での金栗四三の年齢は25歳の頃で、選手としても絶頂期にあり優勝が期待をされていました。しかし、1916年(大正5年)のベルリン大会は、第一次世界大戦のために中止という悲運に見舞われてしまいます。
金栗四三が次に参加したオリンピックは、1920年(大正9年)の第7回アントワープ大会(ベルギー)。結果は、2時間48分45秒で16位。平凡な記録に終わったのは、大会前の練習で足を痛めていたためと伝えられています。
また、次の1924年(大正13年)の第8回アントワープ大会(ベルギー)にも出場。しかし既に33歳という年齢はピークを過ぎていたようで、32km過ぎで途中棄権となり、帰国後に現役引退を決断します。
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金栗四三のとてつもない記録とは
金栗四三はオリンピックのマラソン大会で、今後も決して破られることはないであろうとてつもない記録を残しています。きっかけは、金栗四三が最初に参加したストックホルム大会です。ストックホルム大会に参加した金栗四三は完走することなく、26km付近で落伍をしています。しかし、この時に金栗四三は「棄権」を申し出ていたわけではありません。
実際のところ、金栗四三は26km付近で日射病で意識を失ってしまい近所の農家に介抱されています。金栗四三が気がついたのは翌日で、すでにマラソン大会が終わった後。金栗四三は棄権を申し出ることもできない状況でした。
では、当時のオリンピック委員会は金栗四三の記録をどのようにしていたのでしょうか。オリンピック委員会の記録では、金栗四三は競技中に失踪し行方不明となっていました。棄権は本人の意思によるものなので、金栗四三が棄権を申し出ていれば、その時点で棄権という記録でレースは終了します。
しかし、大会記録は行方不明。言い換えれば、ストックホルム大会での金栗四三のレースはまだ終わっていないという解釈もできます。
ところで、ストックホルム大会終了後の1967年(昭和42年)に、ストックホルム大会開催55周年を記念する式典が当地で開催されることになりました。
そのとき、当時の記録を調べていたオリンピック委員会が金栗四三の記録が行方不明でゴールをしていないことに気がつきます。
そして、オリンピック委員会が金栗四三に、ゴールさせるために式典参加の要請をしたところ快諾。金栗四三は76歳という年齢で式典に参加。式典が行われている会場を背広姿で走り無事にゴールをします。
そして、ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」とのアナウンスが響きます。
オリンピック委員会の粋な計らいに対して、金栗四三も次のように応えます。
「ここまで長い道のりでした。この間に結婚をして、6人の子どもと10人の孫に恵まれました。」この金栗四三のユーモアに富んだ話に、会場は大きな拍手と歓声で包まれます。
なお、金栗四三の「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」は公式記録とされるとともに、マラソンの最も遅い記録としてギネスプックに載ることになりました。
さいごに
この記事では、金栗四三の生涯と金栗四三の残したとてつもないマラソンの記録についてご紹介をしてきました。
ところで、金栗四三は現役の時から選手としてだけでなく、マラソンの普及に努めてきました。
たとえば年表のところでご案内をした、1920年(大正9年)の四大専門学校対抗駅伝競走は、マラソン選手の育成には、一つの大会で多くの選手を走らせることができる駅伝競走が最適だという金栗四三の信念のもとに始められたもので、四大専門学校対抗駅伝競走は、その後の箱根駅伝につながっています。
※ 四大専門学校対抗駅伝競走の出場校は、早稲田大学・慶応大学・明治大学・東京高等師範学校の4校です。
※ 現在、金栗四三の名を冠した大会はいくつかありますが、箱根駅伝では第80回大会から最優秀選手に対して「金栗四三杯」が授与されるようになっています。
選手として日本のマラソンの黎明期を支え、さらには現在のマラソンの礎を作った金栗四三は、やはりマラソンの父と呼ばれるにふさわしい人物のようです。
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