スポンサーリンク
はじめに
この記事では「日本警察の父」と言われている川路利良(かわじとしよし)。その川路利良と西郷隆盛や大久保利通との関係について、時系列でお伝えをしていきます。
川路利良とは
まずは川路利良の略歴についてご案内をしていきます。1834年(天保5年) | 薩摩藩の郷士の家に生まれる。 |
1864年(元治元年) | 蛤御門の変で長州藩の猛将来島又兵衛を狙撃して倒す。 |
1868年(慶応4年) | 戊辰戦争に参加。上野戦争などで戦功をあげる。 |
1871年(明治4年) | 欧州の警察を視察し帰国後に日本の警察制度を創る。 |
1874年(明治7年) | 警視庁創設と共に初代大警視に就く。 |
1877年(明治10年) | 西南戦争に陸軍少将として参戦する。 |
1879年(明治12年) | 欧州視察中に発症し帰国後に亡くなる。(享年46) |
スポンサーリンク
幕末から明治維新まで
川路利良は薩摩藩で生まれます。身分は郷士。明治維新三傑のうち、西郷隆盛と大久保利通は薩摩藩の下級武士の出自として知られていますが川路利良はさらに下の身分。
決して恵まれた環境とは言えませんでした。
川路利良と西郷隆盛・大久保利通の関係がいつから始まったのかは定かではありませんが、遅くとも1864年の蛤御門の変で戦功をあげてから西郷隆盛・大久保利通の関係が生まれていったものと考えられます。
その後、戦いの才能を認められ、戊辰戦争時には大隊長という役職を与えられ戦功をあげています。
明治維新から明治6年の政変まで
明治維新後、西郷隆盛にすすめられて新政府に入った川路利良は1871年に欧州にわたり警察制度を学び、帰国後に警察組織を創設します。
このときに模範としたのがフランスの警察制度。とりわけ参考としたのがジョゼフ・フーシェという人物でした。
フーシェはフランス革命からナポレオンの時代まで活躍した政治家ですが、個人としての信条とか理想というよりも、その時々の権力の動向を見極めていたことから「カメレオン」とか「風見鶏」とか言われていました。
フーシェが特に得意としたのが情報収集能力に基づく陰謀で、とりわけ有名なのが秘密警察。
たとえばナポレオンなどはフーシェを軽蔑しながらも、情報収集能力の高さを評価し警察大臣にしています。
その情報能力の高さはナポレオンの私生活まで監視していたといわれるほどですが、多くの人に敬遠されていながらもフーシェは唯一無二の存在として生き抜いていったようです。
人としてのフーシェはともかくとして、フーシェの情報収集能力の高さや秘密警察を含む警察組織の構築を見習ったのが川路利良。
帰国後の川路利良は、日本の警察組織を短期間で作り上げてしまいます。
では、川路利良が短期間で警察制度を作り上げることができた理由は何でしょうか。
大きな理由は2つありますが、いずれも江戸時代の武士に関係をしています。
まず一つ目は当時の治安です。
江戸時代は各藩で治安を維持していました。江戸の場合は、主に町奉行所の与力・同心がこの役割を担っていました。
しかし、この制度は1871年に廃止。その代わりに設けられたのが邏卒(らそつ、現在の警察官)3,000人の常設です。
もっとも治安の維持は誰にでもできるわけではありません。
少なくとも武芸の心得のあることが必要でしたし、読み書きができることも求められます。
これに見事に合致していたのが江戸時代の武士階級。
現在であれば新人を採用して育成するという方法もあるでしょうが、当時は短時間で邏卒を集める必要がありました。
また当初は3000人と予定された採用者の人数もさらに膨れ上がっていました。
2つ目の理由は当時の武士階級の置かれた状況です。
武士は主君から禄を受け取り、帯刀が許される、いわば特権階級でした。
しかし、明治になり廃刀令など特権がはく奪され、生活にも困窮するようになりました。
邏卒は身分的には高いとは言えず、高給でもなかったようですが、それでも困窮からは脱することができました。
当時の警察の階級組織は大きく分けて上から警視・警部・巡査ですが結果として警視・警部はすべて士族出身者。
巡査も多くが士族出身であったといわれています。
ところで、欧州で警察組織を学び、日本で警察組織を創ったのは川路利良です。
ただ川路利良の権限ではそこまでのことはできません。
川路利良に警察組織を学ばせ作らせたのは、西郷隆盛であると言われています。
明治になり、東京の治安維持と武士階級の生活維持を考えたとき、早急に警察組織を創り治安維持と武士階級の生活の安定が必要である。
西郷隆盛がこの問題についてどの程度深く考えていたのかは定かではありませんが、川路利良にこの任務を与えたのは西郷隆盛。
少なくともこの辺りまでは、川路利良と西郷隆盛の関係は近いものであったと考えられます。
スポンサーリンク
明治6年の政変から西南戦争まで
1873年、いわゆる明治6年の政変があり、結果として西郷隆盛は政府を離れ下野。大久保利通が名実ともに明治政府の中枢に収まります。
西郷隆盛が下野して鹿児島に帰ると、西郷隆盛を慕っていた多くの旧薩摩藩士が政府の官職を辞して鹿児島に戻ってしまいます。
この時、川路利良はどうしたのでしょうか。
西郷隆盛との結びつきの深さを考えたら川路利良も鹿児島に帰るはずでした。
しかし、川路利良は「私情ではなく大義に基づいて行動する」と語っています。
川路利良の大義とは自らが作った警察組織をより完全なものにすること。
そのため、この時点で川路利良は西郷隆盛と袂を分かち、むしろ大久保利通との接触を深くしていきます。
1874年、警視庁を創設した川路利良は初代の警視総監に就任します。
ところで、薩摩に戻った西郷隆盛はどうしていたのでしょうか。
西郷隆盛を慕う人は西郷隆盛を中心人物として「私学校」を作ります。
学校とは言いながらも、私学校は銃隊や砲隊を持つ一種の軍事組織。さらには鹿児島を独立国家のようにして政府と反目するようになります。
明治6年の政変以降、各地に士族の反乱がおこります。
たとえば、江藤新平の佐賀の乱などでは、川路利良はあらかじめ佐賀に密偵を放ち乱による騒擾を抑えています。
そして、独立国家化する鹿児島に川路利良が行ったのは、やはり密偵の活用。
川路利良は中原尚雄ら旧薩摩士族を中心とした密偵24人を鹿児島に送り込み、私学校の状況を確認します。
しかし、隠密行動は私学校の知るところとなり中原尚雄は捕縛。
厳しい取り調べの結果、中原尚雄は川路利良が西郷隆盛を暗殺するつもりであるという自白をします。
1877年の西南戦争のきっかけはいくつもありましたが、明治政府、とりわけ同じ薩摩藩出身の川路利良の西郷隆盛暗殺計画は、私学校の人々の激高を誘ったと言われています。
西南戦争において大警視の川路利良は陸軍少将として西南戦争に参加をします。
義より理を重んじるといえばそれまでのことですが、西郷隆盛の敵として西郷隆盛の前面に立って戦う川路利良はどのような気持ちだったのでしょうか。
西南戦争が終結し、西郷隆盛が亡くなった時点で、すでに川路利良は軍を離れ東京に戻っていましたが、川路利良の心情は興味深いものがあります。
西南戦争から亡くなるまで
西南戦争が終わり西郷隆盛は亡くなりますが、翌年1878年には大久保利通が暗殺をされます。
このとき、川路利良は大久保利通暗殺の情報を事前に知っていたと言われています。
ただし、川路利良はこのことを知りながらも何の対策も立てなかったとも言われています。
こうしたことから川路利良は西郷隆盛だけでなく大久保利通も裏切った人物と酷評する向きもありますが果たしてどうでしょうか。
大久保利通も川路利良も暗殺計画は探知していたが、薩摩の気風として鷹揚に構えて護衛をつけなかったところ災難が起こった。
このような意見もあります。
どちらが真実かははっきりとしないものの、川路利良の最大の後ろ盾は大久保利通。
この関係が崩れていないとしたら、川路利良は大久保利通を守り通したはず。こう考えられるような気もします。
川路利良は1879年に亡くなります。死因は病死と言われていますが、一説には毒殺という説もあります。
毒殺の証拠は何もないようですが、川路利良の置かれていた立場を類推できるような説でもあります。
さいごに
この記事では、川路利良と西郷隆盛や大久保利通との関係をお伝えしてきました。
簡単に言えば、川路利良は明治6年の政変までは西郷隆盛に近く、その後は大久保利通に近かったといえる人物です。
ところで、西南戦争後すでに100年以上の歳月が経過をしています。
ところが鹿児島県での人気は西郷隆盛が圧倒的に高く、西郷隆盛に敵対した大久保利通は不人気であると言われています。
近年、その傾向は幾分弱まっているとはいうものの、それでも大久保利通の人気は決して高いとは言えないようです。
では、川路利良はどうでしょうか。
川路利良が警察組織を創るにあたって参考にしたのは、カメレオンとか風見鶏とか言われたフーシェです。
フーシェは警察組織だけでなく秘密警察さえ作って、敵方の情報収集やかく乱をしています。
これでは人気を求めるのは無理があります。
また、よく見えるところでは川路利良はお世話になった西郷隆盛を裏切り、もしかしたら大久保利通さえ裏切った。
どちらも噂の部分も多く、どの程度真実かはわかりませんが、やはり人気を得られるような状況ではありません。
鹿児島において西郷隆盛は人気があるけど大久保利通は不人気と書きましたが、川路利良は大久保利通以上に不人気と言われています。
川路利良は義より理を重んじた人物であることは確かなようですが、実際の川路利良はどのような人物だったのでしょうか。
スポンサーリンク
スポンサーリンク