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小松姫の逸話から性格を考えてみました
小松姫は、真田昌幸の嫡男真田信幸の正室です。この時代の女性に逸話が残ることは必ずしも多くありませんが、信州松代藩の祖と言われた真田信幸の正室小松姫には、いくつかの逸話が残されています。
この記事では、小松姫の逸話から小松姫の性格を考えてみたいと思います。
小松姫とは
小松姫は、本多忠勝の娘です。本多忠勝は徳川四天王の一人に数えられる武将。徳川四天王とは酒井忠次、榊原康政、井伊直政、そして本多忠勝で、徳川家康の幼少時から苦楽を共にした武将。
いわば、徳川草創期における主要メンバーといってもいい存在です。
徳川四天王の中でも本多忠勝はとりわけ勇猛な武将として知られていました。
本多忠勝は生涯57の戦場に臨んだとされていますが、かすり傷さえ負わなかったと言われています。
小松姫は1573年に生まれます。
真田信幸の正室となったのは、1586年から1590年にかけて。
婚姻の時期は諸説あり確定していないようですが、小松姫が13歳から17歳までの間に、真田信幸に嫁いだと考えられています。
小松姫が亡くなったのは1620年。小松姫47歳の時です。
夫である真田信幸は93歳の長命を保っていますので、夫よりはるかに先に早く亡くなったことが分かります。
それでは、小松姫の逸話についていくつかご紹介させていただきます。
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小松姫の逸話と性格
小松姫の性格は、本多忠勝の血を強く受け継いでいると言われています。
本多忠勝は勇猛で知られた武将。その娘である小松姫の性格も勝気で知られていました。
また小松姫の性格は、単に勝気というだけではなく、機転が利き思慮深く、さらには愛情も細やかで義侠心もあったと考えられています。
小松姫の逸話と性格 その1
この逸話は、どこまで真実なのかはっきりとしていません。ただ、よく紹介されている逸話なので、ご紹介させていただきます。小松姫が適齢期になったとき、徳川家康が婿選びを考えます。
徳川家康が適齢期の男子を大広間に集めて、小松姫が吟味。小松姫は、居並ぶ男子の髷をつかみあげ品定めをします。
この男子たちは徳川家康の命令によって集められたもの。腹立たしいことであっても否応はありません。
そう皆が思っていたところ、真田信幸だけが小松姫の手を払いのけ叱責。真田信幸の気概に感じ入った小松姫が、真田信幸の許に嫁ぐことを決めたというものです。
徳川家康にいくら権威があったとしても、こんな無体なことをするのか。
そのあたりは疑問の残るところですが、この逸話は小松姫の強気という性格をよく表しているもののように思われます。
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小松姫の逸話と性格 その2
小松姫の逸話として、もっとも有名なものをご紹介します。1600年9月に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。小松姫の逸話としてもっとも有名な出来事が、関ヶ原の戦いの直前に起こります。
関ヶ原の戦いの前にあったのが、徳川家康を中心とする上杉征伐。徳川家康が上杉征伐に赴く途中で起こったのが、遠く近江にいた石田三成の挙兵です。
このとき、徳川家康に付き従っていた諸将の多くは、徳川家康に味方をし、石田三成に敵対する道を選びます。
真田家も、真田昌幸の嫡男である真田信幸は徳川家康の東軍につくことを明確にします。
しかし、真田家の当主である真田昌幸と、次男の真田幸村は、石田三成の西軍につくことを決めます。
真田家の帰趨を決めたこの会議を、会議の場所にちなんで「犬伏の別れ(いぬぶしのわかれ)」(犬伏は現在の栃木県佐野市)と呼んでいます。
この会議で、真田昌幸・真田幸村と、真田信幸は袂を分かつことになり、真田昌幸と真田幸村親子は居城の上田城へ戻ろうとします。
上田城に帰る途中にあったのが、真田信幸の居城の沼田城。
ここで、真田昌幸は休憩をしたい、孫に会いたいと、沼田城を守っていた真田信幸の正室である小松姫に申し出をします。
しかし、小松姫は目の前にいるのが真田昌幸と真田幸村で、夫の真田信幸がいないことに不審に思います。
真田昌幸・真田幸村と、真田信幸はすでに袂を分かっていると悟った小松姫は、義理の父や弟の申し出を拒否。
小松姫は長刀に鎧姿と武装した姿で城門に立ち、戦も辞さずという構えをみせます。この姿を見て、さすがの真田昌幸も沼田城に入るのを諦めたとされています。
真田昌幸は、小松姫のことをよく思っていなかったと伝えられています。それは小松姫が本多忠勝の娘というばかりではなく、徳川家康の養女という形で嫁いできたため。
真田昌幸と徳川家康には遺恨があったとされていて、真田昌幸は徳川家康を嫌っていたと言われています。
政略結婚なので致し方ないとしても、嫌いな徳川家康の養女である小松姫を好きになれるわけもありません。
しかし、小松姫は夫の居城を守るため、義理の父親に敵対してきた。
このことは、戦国武将としての真田昌幸を感激させたようで、「小松姫がいる限り真田の家は安泰」と大喜びしたと伝えられています。
また、この逸話はこれだけで終わりません。
真田昌幸は、沼田城入城の口実として、真田信幸の子に会いたいという申し出をしてきました。
真田昌幸の入城を拒否することはできても、義理の父親の願いを無下にもできません。
沼田城に入城できなかった真田昌幸と真田幸村親子は、沼田城に近い正覚寺に宿営することになります。
そして、この正覚寺に現れたのが小松姫と子供です。
正覚寺を宿営場所にと手配したのも小松姫なら、孫に会いたいという願いを叶えてくれたのも小松姫。
たとえ親や弟でも、敵となった以上、夫である真田信幸の城に入れるわけにはいかない。しかし、たとえ義理でも親子の情としては、義父と孫の対面を叶えたい。
まさに、小松姫は良妻であり、かつ親思いの嫁であったことがわかります。
この逸話からうかがい知れる小松姫の性格は勝気であること。
また、勝気であるばかりでなく思慮深く、機転も利くということ。
さらに、真田昌幸と孫の面会も画策するなど、愛情こまやかな性格を感じ取ることができそうです。
小松姫の逸話と性格その3 その他
小松姫の逸話としては、前述の沼田城の出来事があまりにも有名です。しかし、小松姫の逸話はそれだけではありません。関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わります。
戦後処理で、徳川家康は西軍についた真田昌幸と真田幸村を死罪にすることを考えます。このとき、これを思いとどまらせたのが本多忠勝と真田信幸。
この2人の助命嘆願により、真田昌幸と真田幸村は死を免れ、九度山追放に落ち着きます。
このとき、助命嘆願をしたのは本多忠勝と真田信幸と言われていますが、小松姫も一役買っていたのではないかと言われています。
また、九度山に追放された真田昌幸と真田信繁は生活に困窮しますが、小松姫は自分の手元のお金から食料や日用品を送るなどしていたと伝えられています。
小松姫の性格は、これまでの逸話でもご紹介してきましたが、さらには義侠心に富み、心づかいのできる性格であったようにも思われます。
さいごに
小松姫は1620年に亡くなります。
小松姫の死を誰よりも悲しんだのが夫である真田信幸で、真田信幸は小松姫の死によって「真田家の灯火消えゆ」と嘆いたと言われています。
ここまで、小松姫の逸話のいくつかをご紹介しながら、小松姫の性格を考えてきました。
真田信幸の小松姫の死に対する言葉は、小松姫の性格と小松姫の貢献に対する最大の賛辞なのかもしれないですね。
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