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はじめに
この記事では、小山田茂誠(おやまだしげまさ)と真田家の関係について書こうとしています。ところで小山田茂誠は戦国時代の末期に生まれた武将ですが、戦国時代で「小山田」姓で知られた武将に小山田信茂(おやまだのぶしげ)がいます。
そこで小山田茂誠と真田家の関係をお伝えする前に、小山田信茂と小山田茂誠の関係からご案内をしていきます。
小山田信茂と小山田茂誠の関係とは
小山田信茂は1539年または1540年に生まれ、1582年に亡くなっています。小山田家は甲斐の武田氏に仕え、小山田信茂の祖母は武田信玄の父親である武田信虎の妹。つまり小山田家と主家の武田家は縁戚関係にありました。
小山田信繁は武田信玄の家臣として活躍。また、武田信玄亡き後は武田勝頼に仕えます。
ただ、武田勝頼は織田信長の侵攻により弱体化。家臣である木曽義昌や穴山梅雪が離反。最後にはそれまで付き従っていた小山田信茂の裏切りにも会い武田勝頼は自害をします。
武田家滅亡後、小山田信茂は織田信長の嫡男である織田信忠に臣従を図ります。しかし、木曽義昌や穴山梅雪が織田家の調略によって武田家を離れたのに対して、小山田信茂は最後に武田勝頼を裏切り自害に追い込んだ。
同じ裏切りでも木曽義昌や穴山梅雪と小山田信茂の立場は大きく異なります。実際に、小山田信茂は織田信忠の怒りにあい斬首に処せられます。
さて、小山田茂誠です。
小山田茂誠は姓が示すとおり、小山田氏の一族で小山田信茂の家臣として仕えていました。もっとも、小山田信茂と具体的にどのようにつながっていたのかははっきりとしていないようです。
小山田茂誠は1567年に生まれ、1642年に亡くなっています。小山田信茂が亡くなったのは1582年ですから、主である小山田信茂が亡くなった後も、小山田茂誠は健在であったことが分かります。
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小山田茂誠の略歴
次に小山田茂誠の略歴をご紹介します。
1567年 | 生まれる |
1582年 | 真田昌幸の長女(後の村松殿と婚姻)、小山田信茂斬首により主家を失う |
時期不明 | 北条氏に仕える |
1590年以前 | 真田信幸の家臣となる |
1615年 | 大坂冬の陣、夏の陣に出陣 |
1622年 | 真田信之(信幸)が松代藩に移封されるとともに同藩の次席家老となる |
1642年 | 死去 |
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小山田茂誠と真田信幸の関係とは
小山田茂誠は小山田信茂の家臣でした。しかし、小山田氏だけではなくその主家の武田氏の滅亡。真田昌幸の長女との婚姻ということもあり、小山田茂誠は真田家との関係をより深めていきます。具体的に小山田茂誠は真田昌幸の長男である真田信幸の家臣となります。また、真田信幸自身が父の真田昌幸や弟の真田幸村と袂を分かちながらも、江戸時代まで生き延びています。
そのため、真田信幸が信州松代藩の藩主になるとともに、小山田茂誠も松代藩の次席家老として代々家名を残しています。
小山田茂誠と真田家の関係は、妻が真田昌幸の長女と婚姻したことに始まります。また、真田昌幸の嫡男である真田信幸に従い、小山田茂誠は江戸時代に入っても存命をしています。
このように小山田茂誠と真田家の関係は妻の村松殿や主である真田信幸とは強いものがあったようです。
さいごに 小山田茂誠と真田幸村の関係とは
真田幸村は真田昌幸の次男。真田信幸の弟になります。
真田幸村は関ヶ原の戦いで兄の真田信幸とは正反対の道を歩みます。そして、関ヶ原の戦いでは敗者となり九度山に追放。真田幸村が再び脚光を浴びるのは大坂の陣になります。
小山田茂誠と真田幸村にはそれほど強い関係は見受けられません。しかし、大坂の陣においては立場は敵味方と分かれていても強い関係性が見受けられます。
大坂の陣で徳川方に属していた真田信幸ですが、真田信幸は病気のためか大坂の陣には出陣をしていませんでした。そこで、真田家において実質的な指揮をとったのが小山田茂誠です。
また、大坂冬の陣と大坂夏の陣の間には、豊臣家と徳川家が講和をしていた期間がありますが、このときに徳川方の小山田茂誠と豊臣方の真田幸村が連絡を取り合っていたという記録が残されています。
さらに、真田幸村の手紙の一節に「さだめなき浮世に候へば、一日さきは知れず候」という有名な言葉があります。
これは真田幸村の最後の言葉、辞世の言葉とされていますが、この手紙自体が真田幸村から小山田茂誠へ送られた手紙と言われています。
小山田茂誠と真田家の関係をみるうえで、小山田茂誠と妻、小山田茂誠と真田信幸には深いつながりのあったことは間違いのないところです。
しかし、それだけではなく小山田茂誠と真田幸村にも深いつながりがあった。そのように思われるのですが、いかがでしょうか。
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