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目次
はじめに
戦国時代。生き残るためには、たとえ親兄弟であっても心を許し合うことはできなかった。これが現実的なところで、たとえば武田信玄は父である武田信虎を追放していますし、織田信長は弟の織田信行を殺害しています。
では、真田信幸と真田幸村(真田信繁)兄弟の関係はどうだったのでしょうか。
真田信幸と真田幸村の兄弟関係について、断言できるような史料は残されてはいません。ただ、一般的に言われている意見はあります。
この記事では、一般的に言われている意見を取り入れながら、真田信幸と真田幸村の性格、そして兄弟の関係について考えてみたいと思います。
真田信幸と真田幸村の略歴
真田信幸と真田幸村の性格や兄弟の関係についてお伝えする前に、2人の略歴をご紹介します。真田信幸の略歴
1566年 | 真田昌幸の長男として生まれる(幼名は源三郎)、真田昌幸が武田家に臣従したため幼少期は武田家の人質として過ごす。 |
1582年 | 武田家滅亡とともに父の元に帰る。 |
1585年 | 第1次上田合戦で徳川方に勝利。 |
1589年 | 真田昌幸が豊臣家に臣従するとともに徳川家とも和睦、徳川家康の養女(徳川家の重臣であった本多忠勝の娘)と婚姻。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いで徳川家康側(東軍)に味方して勝利する、戦後約10万石の大名となるとともに、真田信幸を真田信之と改める。 |
1622年 | 豊臣家滅亡後、信州松代藩に移封される。 |
1653年 | 死去(93歳) |
真田幸村の略歴
1567年 | 真田昌幸の次男として生まれる(幼名は源次郎)。 |
1585年 | 真田昌幸が上杉氏に臣従したため真田信繁は人質となる。 |
1588年頃 | 真田昌幸が豊臣氏に臣従したため真田信繁は人質となる、大谷吉継の娘と婚姻する。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いで父の真田昌幸と共に豊臣側(西軍)に味方する。真田昌幸・信繁親子は第2次上田合戦で徳川秀忠に勝利するも西軍は敗北、真田昌幸と共に真田信繁は九度山に追放される。 |
1611年 | 父の真田昌幸死去。 |
1614年 | 大坂冬の陣に際して大坂城に入城し真田丸を築く、このころ真田信繁から真田幸村に改名をした可能性がある。 |
1615年 | 真田丸の戦いで功績をあげるものの講和により真田丸は破却、大坂夏の陣において討死(49歳)。 |
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真田信幸と真田幸村は本当に兄弟だったの
真田信幸と真田幸村の略歴を見ると少し不思議なことがあります。
それは、真田信幸の幼名が源三郎で、真田幸村の幼名が源次郎ということ。一般に名前は年長の者から、太郎、次郎、三郎と名付けられます。
ところが、嫡男とされた真田信幸が源三郎で、次男の真田幸村が源次郎。
真田家にあっては順番が逆になっています。また、真田信幸と真田幸村の年齢差はたったの一つ。
こうしたことから、真田幸村が兄で、真田信幸が弟という説。
また、本当は真田幸村が兄であったため源次郎、真田信幸を源三郎としたが、真田幸村の母の出自が低かったため、正室から生まれた真田信幸を兄としたという話しもあるようです。
もっとも、この説は基本的には否定をされているようです。
例えば、2人の兄弟の父である真田昌幸は源五郎、その弟である真田信尹は源次郎を名乗っています。
この名前の付け方は、真田家に限らず古来からあったとも考えられています。
したがって、絶対とは言い切れないまでも、兄は真田信幸、弟は真田幸村。そして、この兄弟の母は、真田昌幸の正室である山手殿というのが定説になっています。
真田信幸と真田幸村兄弟の性格の違いとは
真田信幸と真田幸村は特に変わった兄弟ではなく、ごく普通の兄弟です。そのため、真田信幸と真田幸村兄弟の性格は、基本的には一般的な兄弟の性格に似ています。
真田信幸の性格とは
真田信幸は、真田家の嫡子として育てられました。幼少の頃は武田家の人質になっていたとはいえ、基本的には戦いにしても内政にしても、父の真田昌幸の背中を見て育っています。
真田信幸の生きていくうえでの最大の目的は真田家の存続。事実、真田信幸は真田家を江戸時代に入っても残しています。
真田信幸の性格は真田家存続が根底にある。したがって、戦場では真田家を残すために勇猛であったとも伝えられますが、普段は温厚で知られていました。
真田家は決して大きな勢力ではなく、常に周囲の大きな勢力に臣従をしてきました。
そのため、勇猛であることは大切な条件で、その勇猛さが敵であった徳川家康の目を引き、徳川家康の養女(本多忠勝の娘 小松姫)を正室に迎え、徳川家康に臣従することで生き残ることができています。
また、内政については苛酷であってはいけません。
真田信幸は温厚であったと伝えられていますが、温厚であったからこそ、内政にもその性格が活かされたものと思われます。
真田信幸は勇猛だけど温厚な性格。しかも、その都度の判断を誤らない冷静沈着さを兼ね備えていたと思われます。
真田信幸は、父の真田昌幸や弟の真田幸村ほどの知名度はありませんが、その性格のためか3人の中ではもっともしっかりとした成果を残しています。
真田幸村の性格とは
真田幸村の性格は、世の中に存在する一般的な弟の性格に似通っています。一言でいえば自由奔放。伸び伸びと育っています。また、兄の真田信幸と異なり、上杉家や豊臣家での人質生活が長かったため、父の真田昌幸との接点は少なく成人を迎えています。
もっとも、上杉家も豊臣家も当時は真田家よりはずっと大きな存在。
実戦の経験は少なくても、上杉家や豊臣家の家風、あるいは戦いぶりなどは、より詳細に見る機会があったものと思われます。
真田幸村は真田家を継ぐ必要はなかった。そして自由奔放な性格で、他家の状況を見ながら成長することができた。
大坂の陣に際して、真田幸村の知名度は抜群でした。しかし、それまでの武功は父である真田昌幸が作り上げてきたもので、真田幸村には戦の経験値が決定的に不足をしていました。
それでも真田丸で活躍できたのは、父である真田昌幸の才能を受け継ぎ、他家で苦労をし、そして自由な発想力があったからこそ。
事績だけで考えると、真田幸村は兄の真田信幸には到底及びませんが、名前を残せたのはそれまでの経験や性格によるところが大きかったように思われます。
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真田信幸と真田幸村の兄弟関係
真田信幸と真田幸村は年齢が近いため、意見の相違も起こりやすい。また、真田信幸は徳川家につき、真田幸村は父の真田昌幸と共に豊臣家についた。
こうした事実を考えると、真田信幸と真田幸村の兄弟関係は悪かったと考えることも可能です。
しかし、真田信幸と真田幸村の兄弟は信頼関係で結ばれていた。一般的にはそのように考えられています。
この兄弟関係を裏付ける証拠としては、関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸と真田幸村は死罪になるところを助命されて九度山に追放という処置で済んだ。
真田信幸は、死罪を回避するため相当の尽力をしたと伝えられています。
また、真田信幸は追放された真田昌幸や真田幸村の生活費の面倒をみていたとされています。
こうした行為は、真田信幸にとっては、主君となる徳川家の疑いを招く原因になります。
事実、真田信幸は2代将軍の徳川秀忠から疑われ、冷遇されたと言われていますが、真田信幸自身はそうした環境に負けることなく、父と弟に対する援助を続けたとされています。
このような事実を積み重ねていくと、一般に言われているとおり、真田信幸と真田幸村兄弟は深い信頼関係で結ばれていたと言っても過言ではないようにも思われます。
さいごに 真田信幸の真田幸村に対する評価とは
弟の真田幸村は49歳で亡くなったためか、兄に対する論評は定かではありません。
もっとも、関ヶ原の戦いから大坂の陣まで、兄の真田信幸に生活を依存していたわけですから、厳しい評価が出てくる可能性は低いと思います。
一方、兄の真田信幸は弟の真田幸村に関する論評を残しています。
それを意訳すると、真田幸村は穏やかで辛抱強い性格で、国を治める力も備わっていると語っています。
兄の真田信幸は、弟の真田幸村の力量を高く評価し、自らは真田幸村の器量には遠く及ばないとも断じています。
しかし、後世の評価はどうやら別のようです。
次男の真田幸村は大坂の陣で豊臣家への忠誠を示したものの討死。
兄の真田信幸は、戦国時代の動乱の中を生き延び、徳川秀忠の冷遇などがありながらも、信州松代藩を維持。
一国を治めるものとしての器としては、真田信幸に軍配が上がるとも言われています。兄の真田信幸は記録を残し、弟の真田幸村は記憶を残したといったところでしょうか。
真田信幸と真田幸村は兄弟として育ちながらも、生き方は正反対。そして兄は長命を保ち、弟は討死。
そのため、真田信幸と真田幸村の性格。
また、真田信幸と真田幸村の兄弟としての関係は注目を浴びているところですが、兄弟関係については憎しみではなく信頼関係がしっかりと構築されていた。
推測の域をでませんが、そんな気がしています。
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