>
日本史 PR

山県昌景は武田四天王の一人で赤備えで有名な武将だった

長篠の戦い古戦場と山県昌景の碑
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

山県昌景の生涯

戦国時代、とりわけ有名な武将の一人にあげられるのが武田信玄です。

武田信玄が活躍した時代、4人の有能な家臣がいて武田四天王と讃えられることがあります。

その武田四天王の一人が山県昌景です。

また、山県昌景が率いる部隊は「赤備え」で知られていて、敵は赤備えを見るだけで恐れたと伝えられています。

なお、山県昌景は飯富昌景(おぶまさかげ)を名乗っていましたが、ある事情で山県姓に改めています。

それでは、山県昌景の生涯を時系列でお伝えします。

武田信玄と武田四天王の生没年

 
武田信玄1521年~1573年
馬場信春1514年又は1515年~1575年
山県昌景(飯富昌景)1515年又は1529年~1575年
内藤昌豊1522年~1575年
高坂昌信1527年~1578年

スポンサーリンク


飯富昌景の出自

飯富昌景の父は飯富道悦、兄は飯富虎昌と伝えられています。

父の飯富道悦は武田信玄の父武田信虎に仕えていましたが、1515年に戦場で命を落としています。

また、兄の飯富虎昌(1504年~1565年)は家老として武田家に仕えています。

ところで、飯富昌景の生年は1515年と1529年の2つの説があります。

飯富昌景が1515年生まれであれば、父が飯富道悦、兄が飯富虎昌であることは理解できます。

しかし1529年生まれだとすると、父の飯富道悦が亡くなってからかなり後になります。

一説に飯富昌景は飯富虎昌の姉の子。飯富虎昌と飯富昌景は兄弟ではなく、叔父と甥であったとも言われています。

スポンサーリンク


飯富昌景が山県昌景になるまで

飯富昌景は武田信玄に仕え、近習から使番、使番から侍大将に出世します。

この頃から武将としての飯富昌景の評価は高く、配下の武将も多くなって武田家の家老に任じられます。

順風満帆な飯富昌景でしたが、突如、大きな事件が襲い掛かります。

武田信玄の嫡男は武田義信です。

しかし、武田信玄と武田義信は意見の齟齬が多く、1565年に武田義信が武田信玄に対して謀反を企てます。

また武田義信の傅役は飯富虎昌で、飯富虎昌もこの謀議に加わります。

武田義信の謀反の企てを、武田信玄に訴えたのが飯富昌景。

武田義信は幽閉され、2年後の1567年に亡くなっています。また、飯富虎昌は謀反の企てが露見するとすぐに首謀者として成敗されています。

武田義信の謀反の企てを未然に防いだ最大の功労者は飯富昌景。

しかし、謀反を企てた飯富姓を名乗ることが憚られたため、武田家で断絶していた山県姓を復活させ、飯富昌景は山県昌景になります。

また、飯富虎昌の部隊は赤備えで知られていましたが、山県昌景はこれを引継ぎ、以後は山県の赤備えとして敵に恐れられる存在になっています。

山県昌景が最期を迎えるまで

その後の山県昌景は武田家の主な戦いに出陣するとともに、武田家の外交の一端を担っています。

1572年、武田信玄が西上作戦を開始。

まず最初にぶつかったのが三河国を治める徳川家康で、武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝します。

しかし、その直後に武田信玄は陣中で亡くなります。

亡くなるとき武田信玄は、武田家の家老で重きをなしていた山県昌景と馬場信春に、後継者武田勝頼の補佐を頼みます。

実際、山県昌景は武田勝頼の補佐に努めたものの、若くて血気盛んな武田勝頼との関係は決して良好とは言えなかったようです。

1575年、長篠の戦が起こります。

この戦いは武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍の戦いです。

三方ヶ原の戦いの時とは異なり、織田信長も徳川家康も十分な備えをして戦いに臨むことができています。

彼我の実力の差を知っていた山県昌景・内藤昌秀・馬場信春など重臣の多くは、撤退することを進言しますが、武田勝頼は聞き入れることなく戦いを決意。

結果は、武田軍の大敗。

武田四天王の4人のうちの3人、撤退を主張した山県昌景・内藤昌秀・馬場信春はこの戦いで討死を遂げています。

長篠の戦い後も武田家は存続しますが、勢いは少しずつ失われていき、1582年3月に武田勝頼は自刃し武田家は滅亡します。

さいごに 赤備えの継承者

山県昌景は亡くなり、武田家も滅亡しますが、山県昌景の代名詞ともなっていた赤備えは、他の武将に継承されていきます。

その継承者とは、井伊直政と真田幸村(真田信繁)です。

井伊直政は徳川家康に仕え、徳川四天王の一人に数えられた勇猛な武将で、井伊の部隊は「井伊の赤備え」と恐れられています。

真田幸村は1614年の大坂冬の陣では真田丸を築いて徳川家康を悩ませ、1615年の大坂夏の陣では徳川家康本隊を急襲した武将として知られています。

どちらも共通するのは「勇猛」ですが、これは山県昌景が勇猛であったためで、赤備えは山県昌景が後世に残した遺産であったのかもしれません。

 
■合わせて読みたい

こちらの記事もお読みください