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服部半蔵とは
徳川家康に仕え江戸幕府ができるころまでに活躍した16人の武将を、徳川十六神将と称することがあります。その中の一人に数えられるのが服部半蔵ですが、この名前は世襲で服部家当主は代々服部半蔵を名乗っていました。
この記事でご紹介する服部半蔵は2代目です。
服部半蔵といえば忍者というイメージが強いようですが、2代目服部半蔵は忍者だったのでしょうか。
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2代目服部半蔵は忍者だったの
2代目服部半蔵は、服部正成(はっとりまさしげ、1542年~1596年)という名前です。服部正成の父が初代服部半蔵で、服部保長(生没年不詳)という名前でした。服部保長は伊賀出身の忍者であったと考えられています。
伊賀国は狭い土地で生活も苦しく、一国を治める領主も長らく存在していませんでした。
そのため、伊賀国の土豪は特定の領主に仕えるのではなく、現在の傭兵のような生活をしている事例も多く見受けられ、その過程で特殊技能を身につけ忍者になる人もいました。
伊賀国の忍者服部保長は室町幕府第12代将軍足利義晴の元で働き、その後、徳川家康の祖父松平清康の目に留まり松平家に仕えるようになります。
もっとも、服部半蔵が忍者であったのは服部保長の代だけで、子の服部正成は忍者ではなく武将として徳川家康に仕えます。
また、服部正成は槍の名手として知られ、勇猛であったことから「鬼半蔵」という異名で知られています。
服部半蔵は忍者だったのは初代だけで、2代目服部半蔵は槍を得意とする武将でしたが、2代目服部半蔵の事績を追っていくと、忍者との関わりが深かったのも確かなようです。
それでは、服部正成(2代目服部半蔵)の事績をご紹介していきます。
※ なお、この後は服部正成を服部半蔵の表記に統一してお伝えします。
※ 服部半蔵と同じく徳川十六神将の一人に渡辺守綱(渡辺半蔵)という武将がいます。服部半蔵の鬼半蔵に対して、渡辺半蔵は槍半蔵と呼ばれていました。
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服部半蔵の事績
1542年、服部半蔵は三河国に生まれます。もっとも五男又は六男であったため幼少時より寺に預けられ、将来は僧侶になる身の上でした。
しかし、僧侶になることを嫌った服部半蔵は9歳の頃に寺を抜け出し、以後数年間消息不明になっています。
服部半蔵の名前が出てくるのは1557年。敵に夜襲を仕掛け戦功を挙げたことで、主君の徳川家康から褒められています。
1560年の桶狭間の戦いで、長らく人質生活を送っていた徳川家康は独立し、本来の領国であった三河国の治安安定に乗り出しますが、この時、服部半蔵は旗本馬廻衆に任じられています。
※ 旗本馬廻衆とは、大将の近くにいて護衛をするような役割です。当時の服部半蔵は18歳の頃ですが、既に武勇に秀でていたことが伺えます。
その後も徳川家の戦いの多くに参加しますが、1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦いでは一番槍の大功を挙げています。
三方ヶ原の戦いは徳川家康が大敗したことで有名ですが、服部半蔵は大敗の中にあって味方を鼓舞し勇気づけたことでも知られています。
1580年、織田家家臣と徳川氏家臣の間で諍いがあり、巻き込まれた服部半蔵は命の危機に見舞われますが、徳川家康は服部半蔵を浪人させ助けたと伝えられています。
服部半蔵の名前が次に出てくるのは、1582年徳川家康の伊賀越えです。
1582年、本能寺の変で織田信長は明智光秀に討たれます。明智光秀が次に狙ったのが、織田信長の誘いで堺の町を遊覧していた徳川家康一行です。
遊覧なので徳川家康に従っていた家臣はごく僅か。
しかし、徳川家康を本国に返すと、明智光秀にとって大きな脅威になります。明智光秀が徳川家康に狙いを定めたのは当然のことです。
徳川家康も一時は切腹を覚悟しますが、本多忠勝などの説得により思いとどまり、本国三河に帰ろうとします。
しかし、その帰路に待ち受けるのは敵ばかり。徳川家康一行が選んだのは、伊賀国を経由して三河に戻るというものです。
この時、伊賀国の土豪(忍者)たちと交渉したのが、父が伊賀国出身であった服部半蔵です。
結果として、徳川家康一行は伊賀国、伊勢国を通り、海路で三河国に戻ることができています。
その後、服部半蔵は徳川家康に従い甲斐国に出陣。
この時、配下につけられたのは伊賀衆で、服部半蔵自身は忍者ではなかったものの、伊賀の忍者との関わり合いを深くしていきます。
1584年の小牧長久手の戦いにおいても、服部半蔵につけられたのは伊賀衆。
さらに1590年の小田原征伐後、8000石を与えられますが、併せて伊賀同心200人が配下につけられます。
それまでの伊賀衆は、戦いの都度、配下につけられたという状況でしたが、この時に服部半蔵が常時統率する立場になったと考えられます。
1592年の文禄の役では肥前名護屋に従軍しますが、服部半蔵の出陣の記録はこれが最後。1597年に病没しています。
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服部半蔵と伊賀同心の関係とは
伊賀越えで、伊賀の忍者が徳川家康の味方をしたのは、服部半蔵の功績であったかもしれません。しかし、伊賀衆の立場からしたら、徳川家康を助ければ恩賞だけでなく徳川家の直接の家臣になれるかもしれないという思いがあったと言われています。
確かに伊賀衆は、伊賀同心として徳川家に仕えることはできました。ただ、伊賀同心が置かれた立場は服部半蔵の家臣に等しい立場。
伊賀衆・伊賀同心には相当に忸怩たる思いがあったようですし、そう思うのには相応の理由があったとも言われています。
まず、初代服部半蔵は伊賀国の忍者とはいっても、忍者としての地位が高くなかったこと。
そして初代服部半蔵は早い時期に徳川家に仕え、伊賀国との縁がなくなっていたこと。
さらに、自分たちの上に置かれた服部半蔵は忍者ですらないこと。
様々な背景から、服部半蔵と伊賀同心たちと間には大きな確執があったようです。
その後の服部家
服部半蔵の後を継いだのは、子の服部正就で3代目服部半蔵となっています。3代目服部半蔵も伊賀同心たちと確執がありましたが、不祥事が元で服部家は改易。この段階で伊賀同心は再編され、服部家の配下ではなくなります。
また、3代目服部半蔵改易後は、弟の服部正重が4代目服部半蔵となりますが、4代目と伊賀同心に直接的な関わり合いは見られません。
なお、4代目服部半蔵も不祥事で改易となっています。
この記事では、服部正成(2代目服部半蔵)の事績を中心にお伝えしてきました。
服部半蔵には忍者というイメージがありますが、実際の服部半蔵に忍者の素養はなく、槍働きで徳川家康に仕えた武将であったようです。
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