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鳥居忠吉とは
鳥居忠吉(とりいただよし)の生年は不詳、没年は1572年です。生年ははっきりとしませんが、亡くなったときは80歳を超えていたと言われています。鳥居忠吉は、徳川家康の祖父松平清康の代から松平家に仕えていた武将です。
徳川家康が台頭する前から松平家に仕えていた武将を譜代ということあります。さらに譜代は、安祥譜代、岡崎譜代などに区分されることがあります。
安祥譜代は、徳川家康の祖父松平清康より前の時代から松平氏に仕えていた武将で、譜代の中でも最古参とされています。
岡崎譜代は、岡崎城を居城としていた松平清康の時代から松平氏に仕えていた武将。
また、駿河譜代という言葉もあるようですが、これは岡崎譜代より後に松平氏に仕えた武将を意味するようです。
譜代の区分については明確でない部分があるものの、鳥居忠吉は岡崎譜代に属する武将と考えられています。
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鳥居忠吉は徳川家康を蓄財で助けた
西三河一帯を治めていた松平清康は、家臣の裏切りに会い1535年に亡くなります。後を継ぐのは、松平清康の子松平広忠のはずですが、松平清康の死により松平家は弱体化し、松平広忠も松平家を継げず他国での生活を余儀なくされていました。
その後、松平広忠は居城の岡崎城に戻りますが、西の織田家、あるいは東の今川家の庇護を受けなければ、存続が危ぶまれる弱い立場でした。
そのため、松平広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)は、最初に織田家、次いで今川家の人質になります。
とりわけ今川家の人質になったのは、徳川家康が6歳から17歳の頃まで。約11年の人質生活の間、岡崎城には今川家の武将が城代として派遣されていました。
しかし、年貢取り立てなどの実務は、松平家に仕える鳥居忠吉などに任せ、城代はその多くを吸い上げてしまうという状態でした。
松平家の家臣は、その日の生活にも困窮するありさまでしたが、その中で鳥居忠吉は城代の目をかわしながら、将来の松平家のため蓄財に励みます。
1560年、桶狭間の戦いで、今川家の当主今川義元が討死。
人質生活から解放された徳川家康は、人質生活を送っていた駿府に戻ることなく、本来の居城である岡崎城に戻ります。
10年以上の人質生活を脱した徳川家康を待っていたのは、岡崎城で辛苦の生活を送っていた鳥居忠吉などの武将です。
その中で鳥居忠吉が行ったのは、徳川家康にそれまでの蓄財の成果を見せること。
人質生活を脱したとはいえ、徳川家康には戦いのための戦費などのお金が必要でしたが、それを賄うだけの蓄財をしていた鳥居忠吉に徳川家康は大いに感謝したと伝えられています。
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さいごに 鳥居忠吉は三河武士の一人
譜代の家臣の中でも、徳川家康が人質時代に松平氏に仕えていた武将は、今川氏の圧政に苦しみ続けていました。苦しい時期が長かったからこそ、譜代の家臣たちの結束は強く、それが戦いの場でも発揮されます。
こうした武士たちを三河武士と称していますが、鳥居忠吉も三河武士の一人であることは間違いないところです。
徳川家康が岡崎城に帰還したときの鳥居忠吉の年齢は70歳前後。
高齢であったため、その後は岡崎城の留守を守る役割などが与えられ、第一線からは退いたと考えられています。
なお、鳥居忠吉の後の鳥居家を継いだのは鳥居元忠です。
鳥居元忠も三河武士の一人として有名な人物で、1600年の関ケ原の戦いでは、その前哨戦となる伏見城の戦いで城に籠り、壮絶な最期を遂げています。
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