季節や歴史の話題を中心に気になることをご紹介しています。ぜひ、読んでくださいね。

上泉信綱は剣聖と讃えられた新陰流の創始者

上泉信綱は剣聖と讃えられた新陰流の創始者

上泉信綱は戦国時代に生きた人物で剣聖と讃えられています。

また、現在でも有名な流派である新陰流の創始者とも伝えられています。

この記事では剣聖と讃えられた新陰流の創始者である上泉信綱について簡単にお伝えをしていきます。

スポンサードリンク


上泉信綱とは

上泉信綱の生年は1508年、没年は1577年といわれています。しかし、生没年について確たる証拠はなく、特に没年については諸説あります。

また、履歴についてもはっきりとはしていませんが、現在の群馬県前橋市上泉町にあった上泉城の城主であったと言われています。

もっとも上泉信綱は長野氏に仕える身分であり、長野氏が滅亡後は新たな支配者となった武田信玄に仕えることなく、兵法家として諸国を巡る旅に出ます。

上泉信綱は陰流(かげりゅう)、神道流(しんとうりゅう)、念流(ねんりゅう)などを学びます。

陰流は室町時代中期に愛洲久忠が編み出した流派。

神道流は室町時代中期に飯篠家直が編み出した流派。

念流は室町時代初期に念阿弥慈恩が編み出した流派です。

上泉信綱自身が室町時代後期に活躍した人物だけに、当時、栄えていた流派を積極的に学んだということでしょうか。

上泉信綱はいくつかの流派を学んだうえで、陰流を中心とした新しい流派である新陰流を編み出します。

さて、諸国流浪の旅についてです。

上泉信綱は単独で旅に出たわけではなく数人の弟子を引き連れています。この弟子としては、神後伊豆守、疋田文五郎、鈴木意伯などの名前が挙がっています。

また上泉信綱が旅に出た先ですが、まず諸国流浪の旅に出た時期が判然としていないため、いつ・どこへ行ったのかもはっきりとはわかりません。

ただ有力な説としては、1563年頃に大和国に赴いた。あるいは、1569年頃に京都に赴いた。

時期について真偽のほどはわかりませんが、どうやら大和国と京都へは行っているように見受けられます。

大和国では、宝蔵院流の創始者である胤栄(いんえい)、後に新陰流の継承者となる柳生柳生宗厳(やぎゅう むねよし)と対戦し、何れも打ち破ったとされています。

また、京都では第13代将軍足利義輝に兵法を披露したとも伝えられています。なお、京都にいた期間は1569年から1571年頃まで。割と長い滞在期間であったようです。

亡くなった時期は前述のとおりはっきりとはしていません。亡くなった場所も大和国という説が有力ですが、明確な証拠はないようです。

スポンサードリンク


上泉信綱が剣聖と呼ばれる理由とは

剣と人を関連づける言葉としては、剣聖とか剣豪という言葉があります。

では、剣聖とか剣豪にはどのような意味があるのでしょうか。

明確な定義はありません。

ただ、一般論でいえば剣豪とは剣術に優れた人。剣聖とは、剣術に優れた人であるばかりでなく人格的にも優れた人。

どうやらこのような使い分けが行われているようです。

上泉信綱は人格的にも優れた兵法家。そのため剣聖と讃えられているようです。

上泉信綱は新陰流に対して相当な自負をもっていたようです。

それは「新陰流以外の流派を否定することはできないが、新陰流以外の流派を認めることができない」という上泉信綱が語ったと言われる言葉でもわかります。

上泉信綱は新陰流が剣法の中では最強の流派であると高らかに宣言をしています。

新陰流にそれだけ強い思いをもっているからこそ研鑽に努め、後世、剣聖と讃えられるようになったのかもしれないですね。

さいごに 上泉信綱以外で剣聖と呼ばれた人物とは


 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では剣聖と讃えられた新陰流の創始者である上泉信綱について簡単にご案内をしてきました。

ところで、上泉信綱以外で剣聖と呼ばれた人物がもう一人います。

その名前は塚原卜伝です。

塚原卜伝は1489年に生まれ1571年に亡くなります。上泉信綱と概ね同時代を生きた人ですが、少しばかり塚原卜伝の方が生没年とも早いようです。

塚原卜伝は鹿島新富流の創始者であり、第13代将軍の足利義輝、北畠具教、細川幽斎などを教えたことでも知られています。

なお、剣聖ということでは宮本武蔵を推す意見も一部にはあります。

もっとも宮本武蔵は剣豪ではあっても人格面に問題ありとして剣聖には加えない。むしろこちらの意見の方が強いように見受けられます。

上泉信綱は多くの有能な弟子に恵まれていました。

特に柳生家は柳生宗厳の子である柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が柳生新陰流を編み出し、柳生新陰流は江戸幕府の剣法の流儀として認められます。

上泉信綱は人格的にも優れる剣聖であったとは思われますが、それを後世に伝えたのはこうした有能な弟子たちだったのかもしれないですね。


スポンサードリンク

関連記事