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目次
豊臣秀吉の性格をご紹介します
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス。この川柳は、豊臣秀吉の性格を一言で言い表すものとして、今に伝わっています。
川柳そのものは江戸時代後期の「甲子夜話」(かっしやわ)という随筆に掲載されていたもので、豊臣秀吉の生きた時代のものではありません。
それでも、豊臣秀吉の性格を簡単に言い表したものとして知られています。
豊臣秀吉に関して、第1級の史料というものはほとんどありません。
なぜなら、豊臣秀吉は基本的には徳川家の敵。 徳川幕府の時代に、豊臣秀吉の事績を正確に伝えることは困難だったと言われています。
そのため、豊臣秀吉に関するエピソードは数多く残されていますが、創作といわれるものもたくさんあるようです。
ただ、一つだけ言えるのは、豊臣秀吉の性格は晩年で大きく変わったということです。
天下を取るまでの豊臣秀吉と、天下を取った後の豊臣秀吉の性格は、同一人物であることを疑わせるくらい、大きな変化を見せています。
この記事では、そんな豊臣秀吉の性格を時系列で、簡単にご紹介していきます。
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豊臣秀吉の性格 天下をとるまで
豊臣秀吉の天下をとるまでの性格は、織田信長ほどの難しさはありません。 簡単で分かりやすいのが、この時期の豊臣秀吉の性格です。では、天下をとるまでの豊臣秀吉の性格を簡単にご紹介します。
豊臣秀吉の性格1 尽くすタイプ
豊臣秀吉が最初に仕えたのが、今川家の武将松下之綱。豊臣秀吉は、松下之綱の元で献身的な奉公をして可愛がられます。しかし献身が仇となり、同僚の妬みをかい、松下之綱の元を去らざるを得なくなります。
次に仕えたのが織田信長。
織田信長のもとで草履取りから出発した豊臣秀吉は、冬に織田信長の草履を懐であたためて織田信長に差し出したと伝えられています。
織田信長はとても猜疑心の強い武将として知られていますが、豊臣秀吉が出世をしたのは何よりも尽くすタイプであったからだと思います。
豊臣秀吉の性格2 家族思い
豊臣秀吉は母親、そして妻である寧々を大切にしたことで知られています。特に女好きで知られた豊臣秀吉。
寧々と結婚したものの子ができなかった。 権力を握ってから数多くの側室をおいた。 それでも、寧々を一生涯そばに置き格別の存在としていました。
豊臣秀吉については継父に対してつらくあたった。
実の妹を無理やり離縁させ、徳川家康の正室に押し込んだなど、家族思いと反する行動もありますが、基本的には家族を大切にした武将だと思われます。
豊臣秀吉の性格3 人を殺すのが嫌い
豊臣秀吉は武将ですから、敵と戦い倒すのが仕事。武将といえば人殺しが稼業のようなものですが、極力、人を殺さなかったのが豊臣秀吉です。
自らも「人を斬るのは嫌い」と語ったとも伝えられていますが、実際に豊臣秀吉が用いたのは「水攻め」や「兵糧攻め」。
死者が多数出る直接的な戦闘は避ける傾向がありました。
「水攻め」や「兵糧攻め」の何よりのメリットは、味方の死傷者を少なくすることができること。
また、敵が早期に降伏すれば敵も生かして、最終的には味方にすることも可能です。
豊臣秀吉は人を斬るのが嫌いであると同時に、味方を増やすことを考えていたと思われます。
豊臣秀吉の性格4 陽気なほら吹き
豊臣秀吉は尾張国中村の百姓出身。 決して裕福な家庭に育ったわけではありません。しかし、自ら幼少期の名前を「日吉丸」と称したり、母親は貴族の出だと語ったり、誰でも嘘だとわかることを陽気に語っていたと伝えられています。
豊臣秀吉の性格5 人たらしの名人
今までのこととも関連しますが、豊臣秀吉は人たらしの名人と言われています。主君である織田信長はもとより、織田家の先輩武将や同僚など、豊臣秀吉はおおむね好意的に迎えられているようです。
織田家にあって天敵ともいえる武将が、織田家の宿老柴田勝家です。
豊臣秀吉と柴田勝家は最終的には賤ヶ岳の戦いでぶつかり、柴田勝家を死に追いやります。
ただ、豊臣秀吉になる前の名前の羽柴秀吉。
羽柴は当時の織田家で力が強かった丹羽長秀と柴田勝家にあやかったもので、秀吉嫌いで知られていた柴田勝家もこれには反論できなかったと言われています。
相性の悪かった相手でさえ封じ込む。 それが豊臣秀吉の真骨頂です。
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豊臣秀吉の性格はいつ変わったの?
天下をとるまでの豊臣秀吉の性格は簡単で分かりやすいものでした。
しかし、天下取り後の豊臣秀吉は、その性格を激変させ複雑な様相を呈しています。
では、豊臣秀吉の性格が変わった原因は何でしょうか。
天下を取るまでの豊臣秀吉の生活は順風満帆でした。 しかし天下をとった豊臣秀吉には数多くの不幸が訪れます。
それを時系列に見ていくと
1590年 | 北条氏降伏により天下を統一 |
1591年 | 淀殿との間に生まれた子鶴松が病死・甥の豊臣秀次を後継者とする・千利休に切腹を命じる・弟の豊臣秀長病死 |
1592年 | 文禄の役が始まる・母の大政所が病死 |
1593年 | 淀殿との間に豊臣秀頼が生まれる |
1595年 | 豊臣秀次に切腹を命じる・豊臣秀次の家族等39名を処刑する |
1597年 | 慶長の役が始まる |
1598年 | 豊臣秀吉死去 |
豊臣秀吉は天下を取りました。 しかし、その直後に度重なる不幸に襲われます。
豊臣秀吉の性格の激変は、天下人になり絶大な権力者になったこと、加齢に伴う性格の変化などもあるとは思われますが、何より大切にしていた家族を失ったことが最大の要因と思われます。
特に1591年の鶴松と豊臣秀長の病死は相当につらいものであったはずですし、千利休の切腹についても、命じたのは豊臣秀吉本人でありながら後に深く後悔をしているようです。
では、天下人になった後の豊臣秀吉の性格はどう変わったのでしょうか。
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豊臣秀吉の性格6 判断能力が衰える
豊臣秀吉の最大の失政。 それは言うまでもなく2度にわたる朝鮮出兵です。約100年続いていた乱世がようやく終了したのもつかの間、新たな戦。 しかも見たこともない外国への出兵ですから、多くの人がこの戦を無謀と感じ反対してました。
豊臣秀吉は、家臣の意見を比較的よく聞く武将と言われてきましたが、誰の意見に耳を傾けることなく、冷静な判断をすることもなく、強硬に出兵を行っています。
豊臣秀吉の性格7 残虐性が増す
若いころの豊臣秀吉は人を殺すことを避けてきました。 しかし、晩年の豊臣秀吉には強い残虐性が見られます。特に代表的なのが、上記の豊臣秀次の家族等39名の処刑。
大人だけでなく生まれたばかりの乳幼児もすべて処刑。豊臣秀次の家系は根絶やしにされたと言われています。
豊臣秀吉の性格8 他力本願になる
若いころは自分の才覚を信じ、まい進していた豊臣秀吉も、晩年には他力本願となります。とりわけ、死を悟った豊臣秀吉が行ったのが、有力武将への懇願。豊臣秀頼、そして豊臣家の行く末を各武将に懇願します。
若いころから親交があった前田利家は当然であったとしても、仮想敵であった徳川家康にも懇願の果てに亡くなります。
その後の、豊臣家がどうなったのかはご承知のとおりです。
まとめ
天下を取るまでの豊臣秀吉の性格は簡単で分かりやすいもの。そうした簡単で分かりやすいことが多くの人をひきつけ、今でも豊臣秀吉の人気は高いものがあります。
ただ、晩年の豊臣秀吉の性格は簡単から複雑怪奇になり、結果的に日本の歴史を大きく変えてしまいました。
歴史に「もし」はありませんが、豊臣秀吉の晩年、その性格が大きく変わらなかったとしたら。
簡単な性格のままでいてくれたら。
多くの歴史ファンがそんなことを空想しているのではないでしょうか?
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