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行田市の足袋(たび)の歴史を簡単にご紹介します

足袋をはいた若者と神輿
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はじめに 行田市(ぎょうだし)とは

この記事では、行田市の足袋(たび)の歴史を簡単にご紹介します。

ところで、行田市とはどのような街なのでしょうか。

行田市の足袋の歴史をご紹介する前に、行田市を簡単にご案内をしていきます。

行田市は埼玉県北部にあります。

行田市の周辺を見てみると、東は羽生市や加須市。

南は鴻巣市。

西は熊谷市。

そして北は群馬県に隣接をしています。

埼玉県の熊谷市や、群馬県の館林市は暑い夏で有名ですが、行田市はこの両市の近くにあります。

あまり話としてはでてきませんが行田市の夏も暑いのでしょうか。

なお、行田市の面積は67.49㎢、人口は約8万人です。

行田市内には、JR高崎線の行田駅と秩父鉄道の行田市駅があります。

行田駅と行田市駅は名前は似ていますが場所は離れていて、両駅間は約5キロの距離があります。

行田市の中心部は秩父鉄道の行田市駅になりますが、都心へ行くにはJR高崎線の行田駅からになります。

なお、行田市内には行田駅や行田市駅だけでなく、秩父鉄道の武州荒木駅、東行田駅、持田駅などもあります。

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行田市の足袋の歴史とは

行田市で有名な古代ハス
行田市は、利根川と荒川に挟まれた肥沃で平坦な地にあります。

そのため綿や藍の栽培が盛んで、藍染めをした綿布の製造が行われてきました。

この藍染めをした綿布を原料にして作られたのが足袋になります。

江戸時代、行田市を治めていたのは忍藩(おしはん)ですが、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の享保の時代には、すでに藩主が足袋づくりを奨励していたという記録が残っています。

享保は西暦でいえば1720年の頃。

行田市の足袋には少なくとも300年の歴史のあることが分かります。

その後、明治になり西洋文明が入ってきて、行田市にもたらされたのがミシン。

ミシンの導入により、足袋の生産量は飛躍的に増大をしています。

足袋は靴下や靴などの普及により、一時期の勢いは失われています。

しかし、足袋そのものがなくなったわけではありません。

生産量で見ていくと、戦前は行田市の足袋製造業者は約200もあり、生産量も全国で約8割のシェアを占めていた時期もありました。

戦後は、行田市の足袋製造業者は大幅に減少し現在では20程度、生産量1位の座も徳島県鳴門市に譲っているようです。

もっとも行田市の足袋の歴史は古いものがあり、現在でも「足袋といえば行田」と親しまれています。

ところで、文化庁が2015年から始めた事業に「日本文化遺産」があります。

日本文化遺産とは、地域にある文化遺産を整備したうえで、さらに地域の振興を図っていくというものです。

日本文化遺産に関して、行田市の足袋は「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として認定をされています。

なお、行田の足袋の歴史を知るうえでうってつけの施設が「足袋とくらしの博物館」(行田市行田1-2)です。

足袋とくらしの博物館は、元々が足袋工場。足袋工場の面影をできるだけ残して、一般開放したのが足袋とくらしの博物館です。

足袋とくらしの博物館の開館日は土曜日と日曜日。

開館時間は午前10時~午後3時。

入館料は200円。

足袋職人の実演も見学できるそうなので、足袋に興味のある方にとっては外せない場所になりそうです。

(足袋とくらしの博物館については、2017年10月1日現在の情報を記載させていただきました。今後、変更の可能性もありますのでご注意ください。)

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さいごに

行田市にある忍城
この記事では、行田市の足袋の歴史を簡単にご紹介してきました。

ところで、行田市には足袋以外にも注目すべき文化遺産などが数多くあります。

最後に、そのいくつかを簡単にご紹介させていただきます。

・ 忍城(おしじょう) 行田市本丸17-23

・ 足袋蔵(たびぐら)  行田市内各所

・ 古代蓮の里     行田市小針2375番地

・ 田んぼアート    古代蓮会館展望室より鑑賞

・ 埼玉古墳群     埼玉県行田市埼玉4834付近

・ B級グルメ ゼリーフライ

行田市には足袋だけではなく、さまざまな史跡などが点在をしています。

市域が広くても車であれば1日ですべてを巡ることは可能です。

電車だと市内はバスやタクシーを使わないと短時間ですべてを見ることは難しいかもしれません。

特に電車で行かれる場合は、最寄り駅が行田駅なのか、行田市駅なのかを間違わないようご注意ください。

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