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はじめに
戦国時代。100年に及ぶ乱世を収めたのが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の武将です。特に徳川家康は江戸幕府を開き、約260年に及ぶ太平の礎を築きましたが、豊臣家から徳川家に天下が移るとき、大きな変動がありました。
その変動に直接的に携わったのが片桐且元です。
片桐且元は豊臣秀吉子飼いの武将でありながら、豊臣秀吉亡き後は徳川家康に上手く操られ、結果的に豊臣家は滅亡に追い込まれています。
この記事では、豊臣家と徳川家の間に入って、歴史を大きく動かすことになってしまった片桐且元についてお伝えしていきます。
片桐且元と豊臣秀吉との関係とは
片桐且元は1556年に生まれ、1615年に亡くなります。片桐且元の家は、元々近江の浅井家に仕えていました。
しかし、織田信長により浅井家は滅亡。その後、近江国に入った豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に仕えることになります。
豊臣家に仕えたのが片桐且元17歳の頃。同時期に豊臣秀吉の家臣となった人物に、石田三成がいます。
片桐且元の名前が一躍有名になったのが、1583年の賤ヶ岳の戦い。
賤ヶ岳の戦いは織田信長亡き後の後継者争いで、この時争ったのが、柴田勝家と豊臣秀吉です。
結果は豊臣秀吉の大勝利で、柴田勝家は自害しますが、賤ヶ岳の戦いとともに有名になったのが賤ヶ岳七本槍です。
賤ヶ岳七本槍とは、賤ヶ岳の戦いで目覚ましい活躍をした豊臣秀吉子飼いの武将で、その武将が七人いたことから名づけられています。
参考までに賤ヶ岳七本槍で有名になった七人の武将を挙げると、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、そして片桐且元です。
この七人の武将は、実際に戦闘で活躍したという話もありますが、譜代の武将が少なかった豊臣秀吉が自らの宣伝のため、賤ヶ岳七本槍を作ったという噂もあります。
賤ヶ岳七本槍の後も目覚ましい活躍をしたのは加藤清正と福島正則。
しかし、その他の5人の武将については、加藤清正や福島正則ほどの活躍は見られません。
片桐且元も賤ヶ岳七本槍の一人に名前を連ねてはいますが、その後は主に後方支援の担当になり、戦の先陣をきるような活躍を見せることはありませんでした。
当時の武将を評価するうえでの一つのバロメーターは石高。
しかし、片桐且元が初めて1万石の大名となったのは1595年のこと。賤ヶ岳の戦い後、10年以上を経て、ようやく大名に取り立てられています。
1598年、主君の豊臣秀吉は亡くなります。
この死の直前、片桐且元は豊臣家の後継者である豊臣秀頼の傅役に選ばれ、豊臣秀吉亡き後の豊臣家との結びつきを深めていくことになります。
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片桐且元と徳川家康との関係とは
片桐且元は、豊臣秀吉の亡くなるころから豊臣家の家老のような立場となっていきます。
そのため、片桐且元は五大老の筆頭ともいえる徳川家康と接触する機会も多くなっています。
関ヶ原の戦いで片桐且元は西軍に加担しますが、加担の度合いが少なかったこと。関ヶ原の戦い後、徳川家と豊臣家の関係修復に尽力したことから逆に加増。
片桐且元は徳川家康により24000石の大名になり、その後も豊臣家の家老のような立場を維持しつつ、徳川家の政治にも協力的立場をとっていきます。
しかし、片桐且元の立場は不安定なものでした。
実際に徳川家と豊臣家の間がぎくしゃくし始めると、片桐且元の立場は苦しいものとなっていきます。
1614年、方広寺鐘銘事件が起こります。
豊臣家は方広寺に大仏殿ととともに梵鐘を造営します。しかし、この梵鐘の銘に「国家安康」などの文字があったことから大問題に発展をします。
国家安康の文字は、徳川家康の「家康」を分断したもの。この文字が不吉ということで、徳川家から豊臣家に対して苦情が申し立てられます。
このとき、豊臣家は弁明の使者を2組送ります。
一組は、片桐且元と大野治長など。もう一組は、大野治長の母である大蔵卿局など。
ここで不思議な対応を見せたのが徳川家康です。
片桐且元の組に対しては弁明を聞くどころか面会もしませんでした。さらには後述するように豊臣家に対して厳しい条件をつきつけます。
ところが、大蔵卿局に対しては直接会うだけでなく暖かなもてなしをしています。
この2組は大坂に帰り、主君の豊臣秀頼に報告をします。当然、このときの報告はまったく別なものになります。
片桐且元は、主君の豊臣秀頼や淀殿に徳川家康は怒っているという悲観的な情報と、厳しい3条件の報告をします。
一方、大蔵卿局はまったく逆の楽観的な情報をもたらします。
どちらを信じればよいのか。
大坂城の中に籠り、世間の情報に疎かった豊臣秀頼と淀殿は、大蔵卿局の報告だけを信じ、片桐且元を深く疑うようになります。
実際のところ、不吉とされた方広寺の梵鐘は今も残っています。
このことから、方広寺鐘銘事件は徳川家の言いかがりにすぎなかったことは明らかですが、それでもこの事件は豊臣家滅亡の大きな要因となっています。
さて、徳川家は片桐且元に対して、どのような条件を突きつけたのでしょうか。
具体的には次の3つであったと言われています。
○ 豊臣秀頼の江戸への参勤
○ 淀殿を江戸へ人質にだす
○ 豊臣秀頼を国替させる
この3つのうち、一つの実行を求められています。
豊臣秀頼はともかくとして、気位の高い淀殿にこの要求が呑めるはずもありません。
片桐且元の要求は豊臣家にとってあまりにも悲観的なものである事から、この三条件は却下されただけでなく、この条件を提示した片桐且元は内通を疑われるようになります。
徳川家康と片桐且元では役者が違いすぎるといえばそれまでのことですが、豊臣家に内通を疑われた片桐且元は、豊臣家からの暗殺を恐れて大坂城を退却したと伝えられています。
大坂の陣では、冬の陣、夏の陣とも徳川氏について豊臣氏の籠る大坂城を攻めたてます。
大坂城の内部を熟知している片桐且元は、この攻城戦にとても役だったようです。
片桐且元の死
片桐且元は徳川氏に加担して豊臣氏を滅亡に追い込みます。
しかし、大坂の陣の始まるころから体調の悪化に苦しんでいた片桐且元は、大坂夏の陣が終わり豊臣氏が滅亡した直後に亡くなります。
片桐且元の死は、豊臣氏滅亡後の約20日後。その突然の死については、病気ではなく自害をした。そのように解釈をする人もいるようです。
片桐且元は、それほどの大人物ではありません。豊臣秀吉や徳川家康とは比べようもありません。
しかし、だからこそ特に徳川家康には上手く操られていた。
片桐且元自身がどのように考えていたのかはわかりませんが、そのようにも見受けられます。
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