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目次
鳥居元忠とは
鳥居元忠は、1539年に生まれ、1600年に亡くなっています。鳥居元忠は徳川家康に仕えた武将ですが、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の徳川四天王には入っていません。
しかし、徳川四天王を含めた16人の武将。徳川家康の家臣として働き、江戸幕府の創設に尽くした徳川十六神将には名を連ねています。
鳥居元忠は必ずしも有名な人物とは言えないかもしれませんが、伏見城で壮絶な最期を遂げたことで知られています。
この記事では、鳥居元忠が伏見城で最期を迎えるまでの生涯。そして鳥居家の子孫の動向についてお伝えします。
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鳥居元忠が最期を迎えるまで1 関ケ原の戦いの前まで
鳥居元忠は1539年の生まれで、1543年生まれの徳川家康より約4歳の年長です。鳥居元忠の父鳥居忠吉は、徳川家康の父松平広忠に仕える譜代の武将でした。
幼少の頃の徳川家康は、今川義元へ人質として出されますが、鳥居元忠は人質生活を送っていた徳川家康に仕えています。
1560年の桶狭間の戦いで徳川家康が独立を果たした後は、1563年三河一向一揆、1570年姉川の戦い、1572年三方ヶ原の戦い、1575年長篠の戦など、徳川家の戦いの多くに出陣。
また、1582年の本能寺の戦いの後、徳川家康は武田家が統治していた甲斐国に侵攻しますが、このとき鳥居元忠は北条氏との境目となる地の統治を任されています。
さらに1590年の小田原征伐後、徳川家は関東へ移封されるとともに、徳川家家臣にも新たな土地が与えられています。
このとき鳥居元忠が得たのは下総国で4万石。
本多忠勝・榊原康政・井伊直政などに与えられた領地よりは少ないものの、東北の大名の抑えとなるべき要衝の地。
甲斐国も下総国も統治したのは隣国の境目にあたる場所で、鳥居元忠が徳川家康の信任を得ていたことが分かります。
そして1600年、いよいよ鳥居元忠がの最期を迎える関ケ原の戦いが起こります。
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鳥居元忠が最期を迎えるまで2 関ケ原の戦い
関ケ原の戦いの前に起こったのが、徳川家康が多くの大名を率いた会津征伐です。会津征伐は、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、徳川家康が率先して出陣したものです。
しかし、徳川家康本来の目的は会津征伐ではなく、石田三成の挙兵を促すものでした。
徳川勢が会津へ行軍している間に、近江国佐和山城にいた石田三成が反徳川の武将を集めて挙兵(西軍)。
その挙兵を契機に、会津征伐に向かっていた諸将が向きを反転させ(東軍)、両軍がぶつかったのが関ケ原の戦いです。
この時、鳥居元忠が居たのは伏見城。場所は東軍の主力から遠く離れた西軍の近くで、西軍が挙兵すれば、伏見城が標的になるのは誰の目にも明らかでした。
東軍を率いる徳川家康から見たら伏見城は捨て石ですが、それでも西軍を少しでも長く引き付けておく必要はありました。
徳川家康を裏切ることなく、しかも徳川家康の意を汲める武将はそうはいませんが、鳥居元忠はうってつけの武将でした。
もちろん、徳川家康も鳥居元忠もそのことは知っています。
徳川家康が会津征伐に向かう直前、伏見城の鳥居元忠を訪ねます。
その時、徳川家康は東国に多くの武将を連れて行かなければならないため、伏見城には3,000人の兵しか置けないと語ります。
それに対して鳥居元忠は伏見城が攻められれば討死しかないから、できるだけ多くの兵を連れて行ってほしいと返します。
徳川家康は感謝し、その日は深夜まで別れの盃をかわしたと伝えられます。
実際、西軍が挙兵してまず攻めたのが伏見城です。鳥居元忠は1,800人の城兵とともに籠城して徹底抗戦。13日間の戦いの後、鳥居元忠は討死で最期を遂げています。
伏見城の血天井
伏見城の戦いは壮絶で、戦いの後には血染めの畳や血染めの床板が残されましたが、一部は養源院(京都市東山区)など複数の寺院に現存しています。※ 養源院は、浅井長政など浅井氏の菩提寺で、浅井長政の娘で豊臣秀吉の側室淀殿により創建された寺院です。京都駅から近く、隣接して三十三間堂などもあるため、1年を通して多くの人が訪れています。
さいごに 鳥居元忠が最期を迎えた後の子孫の動向
関ケ原の戦いの前哨戦とも言える伏見城の戦いで鳥居元忠は凄絶な最期を遂げます。では、鳥居元忠が最期を迎えた後の鳥居家はどうなったのでしょうか。この記事の最後に、その後の子孫の動向について少しだけ触れておきたいと思います。
鳥居元忠の子孫1 子・鳥居忠政
鳥居元忠が最期を迎えた後、鳥居家を継いだのは鳥居元忠の次男鳥居忠政(1566年~1628年)です。鳥居忠政は、関ケ原の戦い時には江戸城留守居役を命じられ、関ケ原の戦いには直接は参加していません。
しかし関ケ原の戦い後は10万石を与えられています。これは父鳥居元忠の功績に報いるためのものと言えそうです。
さらに1622年には移封。
出羽山形で22万石を与えられますが、これは父鳥居元忠と同じように、東北の大名の抑えとしての役割を期待されてのものと考えられます。
鳥居元忠の子孫2 孫・鳥居忠恒
鳥居忠政の跡を継いだのは鳥居忠政の長男で、鳥居元忠の孫の鳥居忠恒(1604年~1636年)です。しかし、鳥居忠恒は生来の病弱で政務を見ることができなかったこと。さらに幕命に違反したとのことで、死後、改易の処分を受けてしまいます。
もっとも鳥居元忠の功績が評価され、鳥居忠恒の異母弟鳥居忠春(1624年~1663年)が鳥居家を継ぎ改めて3万石が与えられています。
鳥居元忠の子孫3 曾孫(ひまご)・鳥居忠則
鳥居忠恒の異母弟鳥居忠春は、当初は良い政治を行っていたものの、次第に圧政が目立つようになります。そのため侍医に斬りつけられ、その時のケガが元で亡くなります。鳥居忠春亡き後、鳥居家を継いだのは鳥居忠春の嫡男で、鳥居元忠の曾孫にあたる鳥居忠則(1646年~1689年)です。
しかし、鳥居忠則も暗愚で知られ、家臣の不祥事で閉門を命じられた際、自害したと伝えられています。
ここで鳥居家は2度目の改易に見舞われています。
鳥居元忠の子孫4 玄孫(やしゃご)・鳥居忠英
2度目の改易となった鳥居家ですが、この時も鳥居元忠の功績が評価され、鳥居忠則の子鳥居忠英(1665年~1716年)に1万石が与えられ、鳥居家は存続します。鳥居忠英は名君として知られ、後に幕府の要職である若年寄に任じられ、知行も3万石に増やしています。
はっきりとしたことは分かりませんが、2度も改易となりながら、その都度復活した大名は他にあったのでしょうか。
徳川家にとって鳥居元忠の功績が多大であったことがうかがい知れます。
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