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真田信之とは
真田信之と正室小松姫が作った信州松代藩。松代藩10万石は、明治維新まで真田氏が藩主として治めていますが、その初代藩主となったのが真田信之です。
ところで、真田信之の縁者にはとても有名な人物が2人います。
一人は真田信幸の父である真田昌幸、もう一人は弟である真田幸村です。
真田昌幸と真田幸村は徳川家康を苦しめた大名として知られています。
それに対して、真田信之は関ヶ原の戦いの前の段階で、父や弟と袂を分かって徳川家康の味方になります。
真田信之は外様大名ですが、実際は徳川家康の信用を得て、譜代格として江戸時代を生き延びています。
真田信之の略歴
それでは、真田信之の略歴を表形式でお伝えします。1566年 | 真田昌幸の長男として誕生、幼年期に武田家の人質となる。 |
1579年 | 武田家のもとで元服、真田信幸となる。 |
1582年 | 武田氏滅亡とともに武田家を離れる。 |
1582年 | 織田家に臣従するも本能寺の変で織田信長が亡くなる。 |
1582年 | 北条氏に臣従の構えを見せるが結果的には敵対する。 |
1585年 | 徳川家に臣従後、上杉家に臣従、さらには豊臣家に臣従。 |
1589年 | 徳川家の与力大名となる。 |
1589年 | 本多忠勝の娘小松姫(形式上は徳川家康の養女)を正室に迎える。 |
1600年 | 関ヶ原の戦いにおいて東軍につく。 |
1600年 | 上田・沼田を合わせて9万5000石の領主となる。 |
1600年 | 名を真田信幸から真田信之に改める。 |
1622年 | 松代藩と沼田を合わせて13万石の領主となる。 |
1656年 | 隠居後、長男と次男の血統で跡目争いが起こる。長男の血統が沼田藩3万石、次男の血統が松代藩10万石を領する |
1656年 | 死去、93歳。 |
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真田信之が生き延びた理由とは
真田信之は戦国時代を生き延び、松代藩の祖となりました。どうして真田信之は生き延びることが出来たのでしょうか。その理由を探ってみました。
理由 その1
戦国時代、真田氏のような小さな大名が生き延びることは難しい時代でした。真田氏は、常に近隣の大きな勢力に臣従することで生き残りを図ってきました。
これは真田信之の父である真田昌幸の知略によるもの。それが真田氏が江戸時代も生き延びた大きな理由です。
理由 その2
真田信之は、本多忠勝の娘である小松姫を、徳川家康の養女としたうえで正室に迎えました。本多忠勝は、徳川家康の四天王の一人と言われたほどの有能な武将。
真田信之と小松姫の婚姻は政略結婚ですが、これは真田信之が有能な武将であった証拠とも考えられます。
そしてこの段階で、真田信之は徳川家康の縁戚となった。このことが真田氏が江戸時代も生き延びた大きな理由となっています。
理由 その3
真田信之が生き延びた最大の理由は関ヶ原の戦いの勝者であったことです。関ヶ原の戦いで、父の真田昌幸と弟の真田幸村は西軍につきました。対して真田信之は、東軍についています。
小大名が戦いにおいて敵味方に分かれることはよくあることですが、結果的に勝者についたおかげで真田信之は生き延びることが出来ました。
なお、関ヶ原の戦い後、真田信幸は真田信之と名を改めています。これは父 真田昌幸の「幸」の字を使うことを遠慮したためとも言われています。
理由 その4
真田信之は、当時としても珍しく93歳と長命でした。真田信之の晩年に跡目争いが起こります。江戸幕府も徳川家光の時代までは、大名を積極的に取り潰していたので、仮に徳川家光が存命であれば真田家も危なかったかもしれません。
しかし、徳川家光は1561年に亡くなっていて、江戸幕府の方針も変化していました。また、真田信之も存命でした。
真田信之は外様とはいえ、徳川家の縁戚でもあり、功臣でもありました。真田信之が長生きだったからこそ、真田家は生き残ったともいえそうです。
理由 その5
真田信之の正室である小松姫(1573年~1620年)は良妻賢母として知られていました。小松姫に関するエピソードもいくつかありますが、代表的なものを一つご紹介します。関ヶ原の戦いでのこと。
舅の真田昌幸が、真田信之の正室である小松姫がいた沼田城を訪れます。
しかし、夫である真田信之が不在の上、真田昌幸は敵方についています。そのため小松姫は真田昌幸の入城をさせませんでした。
しかし、小松姫は真田昌幸の入城を拒んだものの、真田昌幸の野営について便宜を図ったため、真田昌幸もその手際の良さに感心したと伝えられています。
真田昌幸と正室小松姫の婚姻は紛れもなく政略結婚でしたが、小松姫の賢さに関するエピソードはいくつも残っています。
この小松姫の賢さが松代藩を作る一助になったことは間違いないものと思われます。
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真田信之の人となりが信州松代藩を作った
真田信之が小松姫を正室に迎えたのは、真田信之の知略や武勇を認めた徳川家康が味方にしたいからと望んだためと言われています。
目立たないながらも真田信之の知略や武勇が優れていたことがわかります。
また関ヶ原の戦い後、西軍についた真田昌幸や真田幸村の助命嘆願をします。真田信之の懇願もあって真田昌幸と真田幸村は死罪を免れ、九度山に蟄居となります。
蟄居となった真田昌幸と真田幸村に対して真田信之は経済的援助を続けています。真田信之は家族思いで義理堅い性格であったことがうかがえます。
真田信之は徳川家康には評価されましたが、2代将軍の徳川秀忠には冷遇されたと伝えられています。
それは、徳川秀忠が真田昌幸や真田幸村に行く手を阻まれ、関ヶ原の戦いに参陣することが出来なかったから。
関ヶ原の戦いでの遅参は徳川家康の怒りをかったため、徳川秀忠は真田氏の一族である真田信之には冷たく当たったと伝えられています。
しかし真田信之自身はそれに屈することなく、むしろ徳川家に積極的な忠誠を尽くしたということで、ここから辛抱強い性格であったことがうかがえます。
まとめ
真田信之は、真田昌幸や真田幸村に比べると地味な存在かもしれません。しかし、実際は知略・武勇に優れ、人柄も立派であったからこそ戦国時代を生き延びることができた。
また、正室である小松姫も良妻賢母であったからこそ、それを後押しすることができた。
前田利家と正室まつが作った加賀100万石よりはスケールは小さいかもしれませんが、真田信之と小松姫が松代藩10万石を作ったと言っても、過言ではないように思われます。
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