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比企尼は源頼朝や源氏を陰で支え続けた女性だった!

比企能員ゆかりの妙本寺
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比企尼とは

比企尼(ひきのあま)は平安末期の女性ですが、生没年は不詳で、歴史上とりわけ有名な人物というわけでもありません。

しかし、比企尼の事績を見ていくと、源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)との関わりが相当に深く、源頼朝を陰で支え続けた女性だったと言っても過言ではありません。

また、比企氏一族は源氏を支え続けますが、その中心にいたのも比企尼であったようです。

この記事では、比企尼と源頼朝の関わり合い、比企氏一族と源氏との関わり合いについてお伝えしていきます。

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流人時代の源頼朝を支え続けた比企尼

比企尼は源頼朝の乳母でした。

乳母は乳児に乳を与えるなど日常の世話をするだけでなく、長じてからは学問なども教える役割を担っていました。

そのため、乳母だけでなく、一族がこぞってその任に当たることが常とされていました。

比企尼の夫は比企掃部允(ひき かもんのじょう、生没年不詳)で、源氏の棟梁である源義朝の家人でした。

そうした経緯から比企尼が源頼朝の乳母になったものと思われます。

1159年の平治の乱では、源義朝だけでなく長男の源義平、次男の源朝長も命を落とします。

三男の源頼朝も死罪になるところでしたが、結局は伊豆国への流罪で落ち着きます。

その頃、比企掃部允は武蔵国比企郡の代官に任じられ、比企尼も任地に赴きます。

当時の源頼朝は14歳、しかも流人となった源頼朝と、武蔵国比企郡に住む比企尼との関わり合いは、失われても不思議ではありません。

しかし、比企尼は源頼朝が流人生活を始めてから、1180年に源頼朝が打倒平氏を掲げるまでの20年間、月に1回程度、生活に必要な物資を送り続けていたといわれています。

流人になり将来の展望も開けない源頼朝を支え続ける理由はなかったのかもしれませんが、それでも支え続けた比企尼には豊かな慈愛を感じるところです。

流人時代の源頼朝を支え続けた比企尼のこの逸話は有名ですが、比企氏一族を見るとさらに源氏との深い関わり合いが見えてきます。

比企尼には、全員が実子というわけではありませんが、5人の子供がいたと伝えられています。

まずは3人の娘、次に2人の息子と、源氏との関わり合いについてお伝えしていきます。

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比企尼の3人の娘

丹後内侍

丹後内侍(たんごのないし、生没年不詳)は、比企尼の長女です。

丹後内侍は二条天皇に仕える女房で、当時、京の貴族との間に子をもうけたと伝えられています。

その後、貴族と離縁し、鎌倉に戻った後は、安達盛長(あだちもりなが、1135年~1200年)に嫁いでいます。

安達盛長は、源頼朝が流人生活を送っているときから仕え、その後の平家追討などでも重要な役割を果たし、源頼朝の信任がとりわけ厚い武将でした。

安達盛長は、1199年、源頼朝が亡くなった後に作られた「鎌倉殿の13人」にも名を連ねています。

また、丹後内侍は源頼朝の妻北条政子が懐妊したとき、着帯の儀式で給仕という重要な役割を担っています。

このように安達盛長と丹後内侍は、源頼朝のそばに仕える存在であり、夫婦そろって源頼朝を支えていたと考えられます。

河越尼

河越尼(かわごえのあま、生没年不詳)は、比企尼の次女で、源頼朝の嫡男源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)が誕生したとき乳母となります。

その後は、河越尼の娘が源頼朝の異母弟源義経の正室となりますが、源義経が源頼朝に反旗を翻したことで、河越尼の夫の河越重頼は所領を没収されてしまいます。

さらに、源頼朝の命により、河越重頼と子の河越重房は誅殺されます。

この一件で、夫と子を失った河越尼ですが、後に源頼朝により所領が回復され、その所領は次男河越重時(かわごえしげとき、生没年不詳)に受け継がれます。

その後、河越尼は源頼家の乳母となっています。

夫や長男を失うなど不遇の時期もありましたが、最後は所領も回復し、源頼朝の嫡子の乳母になっていることを考えると、源頼朝の信任が厚かったことが伺えます。

比企尼の三女

比企尼の三女は、名前も生年も不詳ですが、没年は1202年。

分かっているのは比企尼の三女として生まれたこと、そして伊東祐清(いとうすけきよ、不詳~1183年)に嫁いだことです。

伊東祐清の父は伊東祐親で、伊東祐親は伊豆国の豪族であるだけでなく、平氏に忠実に仕える一族でもありました。

そのため、伊豆国に流された源頼朝の監視役に任じられています。

その伊東祐親が京の大番役で伊豆国を離れているとき、源頼朝は伊東祐親の娘の八重に接近し、2人の間には千鶴丸が誕生します。

大番役の任を終え伊豆国に戻った伊東祐親はこれを知り激怒。家人に命じて千鶴丸を亡きものにするとともに、源頼朝の襲撃を企てます。

このとき襲撃の計画を源頼朝に知らせたのが伊東祐清で、源頼朝は北条時政の館に逃げ込み難を逃れています。

伊東祐清が源頼朝を逃がしたのは、以前より2人は知己があった、あるいは比企尼の命により行動を起こしたとも言われています。

その後、源頼朝が平氏打倒のため挙兵し、富士川の戦いで勝利を得た時、平氏方に加わっていた伊東祐親・伊東祐清親子は捕らえられます。

伊東祐親は、周囲の働きかけもあって死を逃れることができますが、これを断り自死。

伊東祐清は、かつて源頼朝を助けた功で恩賞を得られるところでしたが、断って源頼朝の元を立ち去り、後に平氏方に加わり討死します。

その後、比企尼の三女は源頼朝の信任もあつかった平賀義信に再嫁し、1182年には姉の河越尼とともに源頼家の乳母になっています。

 
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比企尼の2人の息子

比企朝宗

比企朝宗(ひき ともむね、生没年不詳)は、比企尼と比企掃部允の実子と考えられていますが、詳しいことはわかっていません。

また実在したことは確かですが、その記録も1194年で途絶えています。

比企能員

比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)は比企尼の妹の子で、比企尼にとっては甥になります。

比企尼と比企掃部允の間に後継者となるべき男子がいないということで、比企能員は2人の猶子となります。

先に、比企尼の次女と三女が源頼家の乳母となったと書きましたが、比企能員は源頼家の乳母父となります。

比企能員は源頼朝の信任が厚い武将でしたが、さらに娘の若狭局が源頼家の側室となり一幡を産んだことで、大きな権勢を持つようになります。

1199年、源頼朝が亡くなった直後にできた鎌倉殿の13人にも名を連ね、1200年の梶原景時排斥にも力を振るいます。

しかし、1203年には北条時政との勢力争いに敗れ謀殺。そのうえ比企氏一族の多くも北条氏一族に討たれてしまいます。

なお義母の比企尼が亡くなった時期は定かではないものの、1193年頃を最後に記録が途切れているので、比企氏一族が滅んだ当時はすでに亡くなっていた可能性が高いと思われます。
 

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さいごに

比企尼は、流人時代の源頼朝を支え続けたことで知られています。

また3人の娘の夫である安達盛長、河越重頼、伊東祐清はそれぞれの立場で源頼朝を支えています。

これは比企尼の意向が強く反映されたためとも考えられています。

また比企氏の後継となった比企能員も源頼朝を支え、源頼朝亡き後も鎌倉幕府を支える一員になっています。

最期は北条時政に謀殺されますが、それでも比企能員が源頼朝の忠臣であったことに変わりはありません。

どうやら、比企尼が源頼朝を創り、源頼朝を歴史上の人物に押し上げたのは間違いないようです。

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