スポンサーリンク
はじめに
平宗盛(たいらのむねもり、1147年~1185年)は、平氏を率いることになりながらも、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡に追い込んだ武将として知られています。また壇ノ浦の戦いでは一族の多くが自ら死を選んだのに対して、平宗盛は捕虜になり最期は源氏の手により生涯を閉じています。
ところで、最期を迎える過程で、平宗盛が命乞いをしたという逸話がいくつかあるようです。
この記事では、平宗盛の生涯を簡単にお伝えするとともに、最期を迎えるに際して命乞いをしたのではないかという、いくつかの逸話をご紹介します。
スポンサーリンク
平宗盛の生涯
平宗盛は、平清盛(たいらのきよもり、1118年~1181年)の三男です。長男は平重盛(たいらのしげもり、1138年~1179年)、次男は平基盛(たいらのもともり、1139年~1169年)で、三男である平宗盛が平清盛の後継になることは考えられませんでした。
しかし、平重盛も平基盛も父の平清盛よりも早くに亡くなってしまったため、平宗盛が後継になります。
1179年、長男の平重盛が亡くなった当時、実権を握っていた平清盛の傲慢な政治運営に多くの人々が不満を持っていました。
翌1180年5月には、打倒平氏を掲げた以仁王の令旨が発せられ、世の中が不穏な雰囲気になっていきます。
また同年8月の富士川の戦いでは源氏方に大敗。さらに平清盛が1181年閏2月に病死し、平氏は大きな柱を失います。
平宗盛が平氏の棟梁の座を継いだのは平清盛が亡くなった後のことで、時の勢いはすでに源氏に傾きつつありました。
さて、平氏の棟梁の座についた平宗盛は、平氏政権の維持に心を砕きます。
この時点での平氏は京をおさえていたため、朝廷との交渉も容易で、それなりの成果もあげていますが、1183年5月に倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲(きそよしなか、1154年~1184年)に大敗。
その後、平氏は京に留まることもできなくなり西国に落ち延びます。
平氏に大勝した木曽義仲ですが、朝廷との軋轢や、京の治安の維持に失敗。
1184年1月に、源頼朝が派遣した源範頼(みなもとののりより、1150年~1193年)や源義経(みなもとのよしつね、1159年~1189年)との戦いに敗れ木曽義仲は最期を遂げます。
しかし、平氏にとっては敵が木曽義仲から源範頼や源義経に代わっただけ。
朝廷を味方につけた源範頼や源義経は平氏追討に乗り出し、1185年3月の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。
壇ノ浦の戦いで亡くなったのは、平氏が擁立した安徳天皇(あんとくてんのう、1178年~1185年)、平宗盛の母の二位尼(にいのあま、1126年~1185年)。
武将では、平教盛(たいらののりもり、1128年~1185年)、平経盛(たいらのつねもり、1124年~1185年)、平資盛(たいらのすけもり、1158年~1185年)、平有盛(たいらのありもり、1164年~1185年)、平行盛(たいらのゆきもり、不詳~1185年)などです。
壇ノ浦の戦いで亡くなった人々の多くが入水による死です。
平宗盛も入水はしましたが、結局は捕虜となり鎌倉に護送。その後は京都に送られ、最期は近江国で処刑され生涯を閉じています。
では、次に平宗盛が最期を迎えるのに際して命乞いをしたという、いくつかの逸話をご紹介します。
スポンサーリンク
平宗盛が命乞いをしたという逸話
逸話1 木曽義仲に命乞い
1183年、木曽義仲により京を追われた平氏は、さらに木曽義仲の攻撃を受けようとしていました。このとき平宗盛は木曽義仲に「降伏をするので命を助けてほしい」という書状を送ります。
木曽義仲はこの申し出を無視しますが、直後に木曽義仲自身が源頼朝の軍勢と戦わざるを得なくなり撤退。
その後、宇治川の戦いで木曽義仲が敗死したことで、申し出が効力を発揮することはありませんでした。
この書状に書かれた命乞いが、自分だけなのか一門のすべてに及ぶのかは定かではありませんが、何れにしても平氏の棟梁の行動としては頷きかねるものがあります。
■合わせて読みたい
逸話2 後白河法皇に嘆願
1184年、一の谷の戦いで大敗を喫した平氏は屋島に逃れます。一の谷の戦いで平氏は有力武将の多くを失い、京に戻ることも難しい状態に陥っていました。
このとき、平宗盛は後白河法皇(ごしらかわほうおう、1127年~1192年)に、神器の返還や天皇の帰京を条件に、平氏に讃岐国を安堵するよう書状を発します。
神器は平氏が京を立ち去るときに持ち出したもので、安徳天皇も平氏が連れ去っていました。
それを元に復するという歎願ですが、後白河法皇はこれを無視します。
このこと自体は命乞いではありませんが、朝廷と疎遠になった状態になっても、朝廷を頼ろうとした平宗盛の弱さがみてとれます。
逸話3 壇ノ浦の戦い
1185年、壇ノ浦の戦いで敗れた平氏は多くが入水による死を選びます。平宗盛も入水しますが、元々、泳ぎが得意だったこともあり、入水後に泳ぎだしてしまい、最後は源氏に捕えられます。
平宗盛が生き延びたのは泳ぎが得意だったということですが、入水した直後に子の平清宗(たいらのきよむね、1170年~1185年)の安否が気になり、死ぬことができなかったとも言われています。
また、この件については、壇ノ浦の戦いの直前に源頼朝が源範頼に送った書状の中に「平宗盛は臆病な人なので自害などできるわけがない」と断じたと伝えられています。
さらに一門が入水していくにも関わらず、平宗盛は慌てるばかりで海に入ろうとしないので、周囲の者が強引に平宗盛を海に突き落としたという説もあります。
これらの行為は、平宗盛が口に出して命乞いしたわけではありませんが、平氏の棟梁としてはあるまじきことです。
入水する前の二位尼(平宗盛の母)も、平宗盛は実子ではなく貰い子なので、あんな醜態を見せていると語り、自らは入水したとも言われています。
逸話4 源頼朝へ命乞い
1185年の壇ノ浦の戦い後、捕虜になった平宗盛は鎌倉に送られます。このとき、平宗盛はただ泣くばかりで、出された食事にもほとんど手を付けられなかったと伝えられています。
鎌倉に護送された平宗盛は源頼朝と対面します。
このとき、平宗盛は卑屈な態度に終始し、出家をするので命は助けてほしいと命乞いをします。
さらに、母(二位尼)は自分のことを貰い子だと語っている。そもそも私は平氏の血をひいていないのだから助けてほしいと命乞いします。
源頼朝ばかりでなく居並ぶ諸将もこれを聞き、平宗盛の態度に呆れ嘲笑したと言われています。
さいごに
源頼朝と対面後、平宗盛は京都に戻され、最期は近江国で処刑され生涯を閉じます。平宗盛は敗軍の将なので、後世の評判は決して芳しいものではなく、命乞いをしたのかについても複数の逸話が残されています。
また、普段の行いも愚鈍で傲慢な人物だったため、平氏の滅亡を招いたとも言われています。
ただ一方では、妻が亡くなったときには官職を返上してまでもその死を悼み、残された子を自分の手で育てた。
父の平清盛とは異なり、自分は物事を荒立てないように努めると宣言するなど、情愛豊かな人物像を示す逸話も残されています。
さらには武将としての能力はともかくとして、実務能力には長けていたという話もあります。
平宗盛が誕生したのは、平清盛が地位を確立する以前のことですが、平宗盛の少年期には保元の乱・平治の乱があり、平氏が政権を握っています。
平宗盛は武家の棟梁であることは確かですが、平氏そのものが公家政権に馴染み公家化していきます。
若い頃は後継者でもなかった平宗盛に求められたのは、武よりも文であったのかもしれません。
そんなことを考えると平宗盛が、争いを好まず愛情豊かな人物であったのは頷けるところです。
また、公家社会の中で実務能力が高かったというのも不思議ではありません。
もっとも武家の棟梁という立場を考えると、こうした美点は欠点にもなります。
平宗盛が命乞いをし、それでも最期を迎えたのかどうかは逸話だけでは判断できないものの、どうやら頼りない部分があり、それが平氏の滅亡を早めた可能性は高いようにも思われます。
スポンサーリンク
スポンサーリンク