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はじめに
どの時代にもライバルという存在はありますが、戦国時代のライバルの代表といえば武田信玄と上杉謙信。武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで計5回対戦をしています。
川中島の戦いについては実際の戦闘が行われなかったこともあるようですが、川中島の戦いは今に語り継がれています。
後世の人は、武田信玄を甲斐の虎、上杉謙信を越後の龍とし、「龍虎相搏つ」のたとえになぞらえていますが、それは2人の間にライバル関係があったからこそ。
武田信玄と上杉謙信のライバル関係は今でも歴史ファンの心を騒がせています。
この記事では、武田信玄と上杉謙信のエピソードのいくつかをご紹介します。
エピソード1 一騎打ち
武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで計5回対戦をしています。その中で最大の激戦と言われたのが1561年第4回川中島の戦いです。
この戦いで武田信玄は軍勢を二手に分け上杉謙信を挟み撃ちにしようとしました。しかし作戦に気づいた上杉謙信は、挟み撃ちになる前に武田信玄の本隊に出撃。
上杉謙信は全軍を武田信玄に向けられたのに対し、武田信玄の軍勢は軍勢を二手に分けていたため手薄。
この第4回川中島の戦いにおいて生まれたのが武田信玄と上杉謙信の一騎打ちです。
上杉謙信は武田信玄の本陣が手薄であることを知るや一気に本陣に襲い掛かり、馬上から床几に座る武田信玄に刀を振り下ろします。
上杉謙信の急襲を受けた武田信玄は軍配でその刀に対抗します。
2度、3度と攻撃を受けた武田信玄は負傷。ただこの時、武田信玄の家臣が上杉謙信を囲んだことから、上杉謙信も諦めその場を立ち去っています。
これが、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちで、過去の歴史ドラマでも幾度となくこの場面が描かれています。
もっともこれが史実かどうかは別問題。
この話は江戸時代の講談などで有名になったエピソードのようですが、いわゆる一級史料には見られない話です。
ただ、上杉謙信はこの戦いの様子を文書で京の公家に送っていて、その中で自ら刀を振るったと書いています。
また、この戦で武田信玄が負傷をしたのもどうやら事実。
この2つの話が結びついて、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちのエピソードができたのでしょうか。
史実かどうか別としてもこのエピソードは甲斐の虎、越後の龍をよく言い表しています。
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エピソード2 塩留め
1567年、武田信玄は今川氏真との同盟を破棄して、駿河国(現在の静岡県)への侵攻を試みます。これに対抗して今川氏真は同じく同盟関係を結んでいた北条氏康(相模国、現在の神奈川県)の協力を仰ぎ、武田信玄の領地である甲斐国(現在の山梨県)への塩の運搬を厳しく規制します。
これが「塩留め」で、今でいえば経済封鎖になります。
塩留めが効果をあげれば甲斐国の領民の困窮は避けることができず、今川氏真はさらに効果を挙げるために越後(現在の新潟県)を治める上杉謙信に対しても塩留めをするよう依頼をしています。
しかし、上杉謙信はこの依頼を拒否。甲斐国への塩留めを行わないばかりでなく、塩の流通を積極的に進めたと言われています。
武田信玄と上杉謙信はライバル。
ただし、それは戦でのライバルであり、領民を苦しめることはできなかった。このエピソードが「敵に塩を送る」の元になったと言われています。
実際は「敵に塩を送る」のたとえのように上杉謙信が武田信玄に積極的に塩を送ったわけではないようです。
ただ、今川氏や北条氏のように塩留めは行わなかったので、塩は自然に越後から甲斐に流れたとも言われています。
「敵に塩を送る」は美談ですが、そうでなくても経済封鎖を行わなかったことに上杉謙信の美学を感じることができるエピソードです。
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エピソード3 武田信玄没後
武田信玄は1573年に亡くなります。武田信玄の後継者となった武田勝頼は勇猛で知られていましたが知略はなく、1575年の長篠の戦いで大敗北を喫してからは急速にその勢力を衰えさせ、1582年に武田家は滅亡します。
武田信玄が亡くなってから、武田家滅亡まで10年弱。急速に衰える武田家を見れば当然、武田家の領地に攻め込みたくなります。
しかし、上杉謙信は武田信玄の領地に攻め込み領土を広げることはありませんでした。
ただ、領地を奪い合うだけのライバルであったら、上杉謙信の行動は理解ができないところです。
上杉謙信は戦に美学を求めていたと言われています。また、戦を起こすのはそこに義という大義名分があるから。
武田信玄が亡くなり、その領土に侵攻し自らの領地を拡大するのは、上義謙信にとっては義に反する行い、大義名分のない戦い、だからこそ上杉謙信は武田勝頼を追い込むことはしなかったと言われています。
まとめ
武田信玄と上杉謙信は戦国時代のライバルで、そこにはいくつものエピソードが残されています。
エピソードについては史実ではないものもあるようですが、だからといって武田信玄と上杉謙信のライバル関係を否定するものではありません。
武田信玄は自らの領土を拡大するのに熱心で、上洛して天下を取ることも考えていたとされています。
一方、上杉謙信にはそのような物欲はなく、戦いの美学、大義名分だけを追い求めていた、そんな風にも見受けられます。
武田信玄と上杉謙信がライバルであったことに異論をはさむつもりは全くありませんが、武田信玄にとって上杉謙信は訳が分からない厄介な存在でもあったように思われます。
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