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三淵藤英とは
戦国時代の末期に、三淵藤英(みつぶちふじひで、生年不詳~1574年)という武将がいました。三淵藤英はあまり知られてはいませんが、細川藤孝や明智光秀との関係で、その名前が出てくることがあります。
三淵藤英は、三淵晴員(みつぶちはるかず、1500年~1570年)の長子として誕生します。
父の三淵晴員は守護大名の細川氏の家に生まれますが、室町幕府の将軍の側近として仕えていた三淵氏の養子に入ります。
三淵晴員の子である三淵藤英も、同じように将軍の側近として仕えるようになります。
ところで三淵晴員には数人の男子がいますが、三淵藤英の弟が細川藤孝(1534年~1610年、後の細川幽斎)です。
細川藤孝は幼少の頃に、父の三淵晴員の実家である細川氏に養子に入り、細川氏を名乗ります。
なお、三淵藤英と細川藤孝には「藤」の文字があります。これは第13代将軍である足利義藤(後の足利義輝)の偏諱を受けたものです。
このことから、三淵藤英と細川藤孝兄弟は共に足利家に近い存在であったことがわかります。
三淵藤英の生涯とは
平穏な時代であれば、三淵藤英も細川藤孝も穏やかな生涯を送れたかもしれません。でも時は戦国時代。
第13代将軍足利義輝は1565年、三好三人衆に暗殺されてしまいます。
足利義輝が亡くなった後、第14代将軍に就いたのは足利義輝の従兄弟である足利義栄(あしかがよしひで、1538年~1568年)です。
もっとも、足利義栄は三好三人衆に担がれただけの傀儡将軍。しかも足利義輝からみても従兄弟という関係にすぎません。
そこで三淵藤英や細川藤孝は、足利義輝の弟で三好三人衆に幽閉されていた足利義昭を救出し、将軍にしようと画策をします。
単独では軍勢を持たない三淵藤英や細川藤孝は、名門として知られていた越前国の朝倉義景を頼ります。
しかし、朝倉義景が動かないことを知ると、次に新興の織田信長を頼ります。
織田信長の助けにより、1568年に足利義昭は第15代将軍の座に就き、三淵藤英も足利義昭の重臣の座に収まっています。
ただ織田信長と足利義昭の蜜月関係は長くは続きません。
1573年になると織田信長と足利義昭は対立します。
このとき、三淵藤英は足利義昭の側に、弟の細川藤孝は織田信長の側につきます。
ここで三淵藤英と細川藤孝は敵対関係になり、実際の戦闘でも対峙します。
その後、足利義昭側は不利になり多くの武将が降伏しますが、三淵藤英は最後まで抵抗します。
最終的に三淵藤英も降伏しますが、この結果を受け足利義昭も降伏。15代続いた室町幕府はここに滅亡をします。
降伏後の三淵藤英は織田信長に仕え、再び弟の細川藤孝とともに敵にあたることになります。
しかし降伏の翌年の1574年、織田信長により所領を没収。近江国坂本城の明智光秀の元に預けられ、自害によりその生涯を閉じています。
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三淵藤英と細川藤孝や明智光秀の関係とは
これまでご紹介をしてきたとおり、三淵藤英と細川藤孝は母こそ異なるものの実際の兄弟でした。三淵藤英と細川藤孝は、仲が良かったのか、悪かったのかはわかりません。
ただ、2人の兄弟が深刻な対立をしたのは、足利義昭と織田信長が対立した時だけのようです。
それ以前は、2人とも将軍に仕える立場であり、幕府滅亡後は織田信長に仕えています。
一方、この2人に複雑に絡み合っているのが明智光秀です。
明智光秀が織田信長に仕えるまでの事績は、はっきりとしていないことが多いようです。
ただ明智光秀が朝倉義景に仕えてきたとき、足利義昭が頼ってきたことで、足利家や三淵藤英と細川藤孝兄弟との関わりが生まれています。
その後、明智光秀は足利義昭の家臣となり、さらには織田信長の家臣になっていきます。
明智光秀は三淵藤英と細川藤孝兄弟と同じように、足利将軍家に仕える立場であったものの早い段階で織田信長の家臣にもなり、さらには足利家を離れ織田信長の家臣になっていきます。
明智光秀と三淵藤英・細川藤孝兄弟の3人は、同時期に足利義昭の家臣になっていて、少なからず知己があったと考えられます。
さて、三淵藤英が織田信長により所領を没収され、預けられたのが明智光秀です。
普通に考えれば自害を命じたのは織田信長であるはずです。しかし、これについては異説もあります。
この異説の前提となっているのは、織田信長は三淵藤英に対して自害を命じていなかったというものです。
織田信長は自分に害を及ぼす者は徹底的に弾圧しますが、そうでない人間に対しては多少の寛容さを持っていました。
例えば1580年になると、織田信長はそれまで仕えていた林佐渡守や佐久間信盛を無能ということで追放しますが、それ以上のことはしていません。
同じように三淵藤英も役に立たないと判断された可能性はありますが、織田信長に害を及ぼせるような人物ではありません。
そのことを考えると、織田信長は三淵藤英の所領を没収したものの、それ以上のことは考えていなかった可能性があります。
では、三淵藤英を切腹に追い込んだのかはだれか。
そう考えると自然に出てくるのが、三淵藤英を預かっていた明智光秀ということになります。
織田信長の意向を勝手に忖度したか。
あるいは、まったく別の理由があったのかは分かりませんが、明智光秀が三淵藤英を自害に追い込んだ可能性は否定できないかもしれません。
さきほど佐久間信盛の追放のことを書きましたが、この追放も明智光秀が仕組んだという史料もあるようです。
どこに真実があるかは分かりませんが、もしかしたらということで、この異説が流布されています。
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さいごに
1582年、本能寺の変で明智光秀は織田信長を倒します。
本能寺の変の後、明智光秀がまず頼ったのが細川藤孝です。
明智光秀は娘の玉(後の細川ガラシャ)を細川藤孝の嫡男である細川忠興に嫁がせています。
明智光秀と細川藤孝は旧知の仲であり、しかも親戚でもある。明智光秀が細川藤孝を頼るのは当然のことです。
しかし、細川藤孝は明智光秀の申し出をきっぱりと断ります。断った理由はいくつも語られていますが、その一つに三淵藤英の存在があります。
三淵藤英が明智光秀の元に預けられた折、細川藤孝は兄の三淵藤英の助命を明智光秀に頼んだのに、明智光秀自身が兄を死に追い込んだ。
細川藤孝と明智光秀は親戚関係で結ばれていたものの、細川藤孝は明智光秀に強い遺恨を持っていた。
そのため、細川藤孝は明智光秀の願いを即座に断ったと言われています。
細川藤孝の心情がどのようなものであったかは分からないので、肯定も否定もできませんが、細川藤孝が明智光秀の申し出を断ったことが、いわゆる「明智の三日天下」につながっていきます。
この記事では、三淵藤英の生涯。
そして、細川藤孝や明智光秀との関わり合いを簡単にご紹介してきました。
三淵藤英は、細川藤孝や明智光秀よりも早くに亡くなっているため、知名度は高くはありません。
でも一時期、とても重要な役割を果たした戦国武将と言えるのではないでしょうか。
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