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目次
はじめに
この記事では、戦前から戦後にかけてプロ野球の世界で活躍をした野口二郎選手について、ご案内をしていきます。ところで、この数年、プロ野球の世界では二刀流という言葉が聞かれます。
二刀流は、もちろん北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手をさしてのもの。
大谷翔平選手は、打者としても投手としても立派な成績を残し、さらに将来が期待をされています。
ところで二刀流。
これまでプロ野球の世界で聞かれることはほとんどありませんでした。
それはレベルの高いプロ野球の世界で、投打という2つの分野の両方で活躍することは難しいから。
それを打ち破ったのが大谷翔平選手ですが、実は過去に二刀流として活躍をしたプロ野球選手がいることはあまり知られてはいないようです。
その選手の名前は、野口二郎選手。
もしかしたら野口二郎選手こそ、プロ野球の世界の元祖二刀流なのかもしれません。
この記事では、野口二郎選手の記録を中心にその二刀流ぶりをご案内するとともに、野口四兄弟についても簡単にご紹介します。
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野口二郎選手とは
野口二郎選手は、1919年生まれ、2007年に亡くなります。享年は、88歳。
野口二郎選手は右投げ右打ち。高校野球での活躍を経て、プロ野球の世界に身を投じます。
さらに現役を引退してからは、阪急ブレーブス、毎日オリオンズ、近鉄バッファローズなど、パ・リーグでコーチや監督を歴任。
1989年には、競技者表彰として野球殿堂入りを果たしています。
それでは、野口二郎選手の記録を中心に記事を書き進めていきたいと思います。
野口二郎選手の高校時代
野口二郎選手は中京商業学校に入学し、主に投手として活躍をします。その経歴は輝かしく、特に1937年夏の大会と1938年春の戦いで優勝。甲子園春夏連覇を果たしています。
特に1938年春の大会は4試合連続完封。海草中との対戦ではノーヒット・ノーランを達成しています。
なお、中京商業学校卒業後は法政大学に入学するも中退。
1939年にプロ野球界入りを果たしています。
野口二郎選手のプロ野球現役時代
野口二郎選手の所属球団
まずは、野口二郎選手が所属した球団をご案内します。1939年度~1940年度 東京セネタース(球団名変更後は翼軍)
1941年度~1943年度 大洋軍(球団名変更後は西鉄軍)
1946年度~1952年度 阪急
1944年度と1945年度に所属球団がないのは、野口二郎選手自身が応召されていたためと、プロ野球そのものの活動が戦争で休止となっていたためです。
それでは、野口二郎選手の投手としての記録と打者としての記録、その二刀流ぶりについてご案内をしていきます。
野口二郎選手の投手としての記録
通算勝敗数 237勝139敗
通算防御率 1.96
最多勝1回 1942年 40勝(17敗)
最優秀防御率2回 1940年 0.93、1941年 0.88
最多奪三振1回 1942年 264
シーズン最多完封 1942年 19試合(プロ野球記録)
シーズン最多無四球 1948年 13試合(プロ野球記録)
連続無四球 1950年 54回1/3(プロ野球記録)
なお、上記の記録を少し書き加えると、2年連続防御率0点台を達成したのは野口二郎選手だけ。
また、野口二郎選手は5年連続25勝以上(1939年~1943年)。さらには、10年連続2ケタ勝利(1939年~1950年)をあげています。
野口二郎選手が投手として活動をしたのは1939年から1952年までで実働12年。
最後の2年は4勝と1勝で投手としての活躍はあまり見られませんでしたが、それにしてもすごい記録です。
野口二郎選手の投手としての記録で、最後にご案内するのは最多投球完投。
1942年5月24日、大洋軍の野口二郎投手は対名古屋戦に先発登板。延長28回を投げぬき、344球で完投勝利を挙げています。
プロ野球界で鉄腕と言えば、稲尾和久投手をあげる声が多いようですが、野口二郎選手を鉄腕とする意見も根強いようです。
野口二郎選手は、甲子園で優勝を果たし、さらにはプロ野球で200勝をあげています。
長いプロ野球の歴史の中でも、同じようなキャリアを持つのは、大洋ホエールズの平松政次投手だけ。
しかも平松政次投手は二刀流ではありません。
野口二郎選手は想像しがたいほどの実績を積みあげています。
野口二郎選手の打者としての記録
通算安打 830安打
通算打率 2割4分8厘
通算本塁打 9本
通算打点 368
野口二郎選手の打者としての記録は、投手としての記録ほど飛びぬけたものではありません。
ただ、1646年には投手として13勝をあげながら、打者としても100安打。
さらに、この年は31試合連続安打を達成し、この連続安打記録はその後25年間、破られることはありませんでした。
また、この年には4番を務めること77試合、投手で4番のこともあれば、外野手として4番ということもあったそうです。
なお、記録としては目立たないながらも、野口二郎選手は足も速かったようで、通算で94盗塁を記録しています。
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野口二郎選手が名球会入りしていないのはなぜ
プロ野球の選手が目指すものの一つに名球会入りがあります。名球会は、一流の記録を残した選手だけが加入できるもので、会員になる条件は日米通算で打者が2000本安打以上、 投手が200勝以上もしくは250セーブ以上と厳しく定められています。
この条件だけを見ると、通算237勝の野口二郎選手は加入条件をクリアしています。
しかし、野口二郎選手は名球会には入っていません。
その理由は、名球会入りの条件としては別に昭和生まれ以降という規約があるため。
野口二郎選手は1919年、大正8年生まれです。
そのため、名球会名簿の中に野口二郎選手の名前を見つけることはできません。
野口4兄弟とは
運動神経は遺伝が大きく影響するのでしょうか。プロ野球の世界を見渡すと、親子でプロ野球選手、兄弟でプロ野球選手というのも案外と多いようです。
でも、兄弟4人がプロ野球選手というと。。。
日本の長いプロ野球の歴史の中でも、兄弟4人がプロ野球選手というのは、金田4兄弟と野口4兄弟だけではないでしょうか。
金田4兄弟とは、金田正一、金田高義、金田星雄、金田留広です。
この中で、金田正一は通算400勝を達成。金田留広も投手として通算128勝をあげています。しかし、金田高義、金田星雄はプロ野球界に在籍した期間も短く、1軍の経験もありません。
4兄弟がプロ野球界に入ったのはすごいことですが、4兄弟全体での実績を比較すると、野口4兄弟に軍配が挙がりそうです。
野口4兄弟とは、野口明、野口二郎、野口昇、野口渉の4人で、野口二郎選手以外の3人の1軍での実績は次の通りです。
野口明 野口四兄弟の長兄
プロ野球在籍期間 1936年~1955年(戦争による中断の期間あり)投手として、49勝40敗。
打者として、1169安打。
野口昇 野口四兄弟の三兄
プロ野球在籍期間 1941年~1943年(1945年に戦死)打者として、115安打。
野口渉 野口四兄弟の四兄
プロ野球在籍期間 1944年~1946年(戦争による中断の期間あり)投手として、0勝2敗。
打者として、8安打。
さいごに
近年、プロ野球界の二刀流として大谷翔平選手が注目を浴びています。
また、大谷翔平選手の二刀流が話題に上った時、過去の二刀流の選手として関根潤三選手の名前も挙がっています。
関根潤三選手は戦後の1950年から1965年まで選手としてプロ野球界に在籍。2リーグ制以降で、1000安打と50勝を達成している唯一の選手です。
関根潤三選手も一流選手であることは間違いないところですが、さらに歴史を遡ると二刀流としてはさらにすごい選手がいたようです。
それが、今回ご紹介をした野口二郎選手。
戦前から戦後にかけて活躍した選手だけに忘れられがちですが、大谷翔平選手とともに野口二郎選手の名前や実績が改めて注目されるとよいですね。
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