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井伊直親・井伊直政と井伊直虎の関係とは
この記事では、井伊直親・井伊直政と、井伊直虎の関係についてご案内します。井伊直親と井伊直政は、その名前のとおり男性でしかも親子。
一方、井伊直虎。「直虎」は強そうなイメージですが実は女性。
この3人は、井伊直親と井伊直虎、井伊直政と井伊直虎という関係で考えるとわかりやすそうです。
そこで、井伊直虎を軸として記事を書き進めていこうと思います。
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井伊直虎と井伊直親の関係とは
井伊直虎の生年は不明、没年は1582年です。
井伊直親の生年は1535年、没年は1563年になります。
家系図で見ると、井伊直虎は井伊本家第22代の当主井伊直盛の一人娘(のちの井伊直虎)となります。
一方、井伊直親は井伊直盛の弟である井伊直満の子、井伊直盛は井伊家の分家です。
時は戦国時代。
井伊家は小さな領地しかもたない存在に過ぎず、実際に井伊直盛の時代も隣国の大国である今川氏に従属する立場でした。
残念ながら井伊直盛の子供は娘だけで、井伊本家の後継とするのは現実的に無理がありました。
そこで、井伊直盛は甥である井伊直親と自分の娘を結婚させ、井伊直親を井伊本家の後継にします。
ここまでは順調でしたが、井伊直親と井伊直盛の娘が婚約して間もなく、井伊直親の父親である井伊直満が今川氏に謀叛の疑いをかけられ殺害をされてしまいます。
当時の常識として、謀叛人の子供である井伊直親も無事ではすみません。危険を察知した井伊直親は本拠地である井伊谷を離れ遠く信州に逃げのびます。
将来の夫を失った井伊直盛の一人娘は、井伊直親の安否も分からず、他の男性から言い寄られることを避けるため出家します。
出家した後の名前は次郎法師。女性であるにも関わらず男性の僧侶のような名前を名乗ることになります。
約10年の後、井伊直親は井伊谷に戻り、今川家からも許しを得ます。
しかし、出家をした次郎法師と井伊直親は結婚することはできません。
それでも後継者の欲しかった井伊直盛は井伊直親を後継者として迎え、井伊直親は井伊家の重臣奥山氏の娘と結婚をします。
井伊直虎と井伊直親の関係は、婚約をしながらも、時代に翻弄され結婚することができなかった。
一言でいえば、そのような関係であったようです。
その後、1560年に起こったのが桶狭間の戦い。この戦いで今川義元は討死をしますが、今川氏の先鋒を務めていた井伊直盛も討死をしてしまいます。
井伊家の当主を失ったことで、井伊直親が井伊家の第23代当主になります。
また井伊直親が井伊家の当主となったころ、井伊直親には一人の男の子が生まれ虎松と名付けられています。(後の井伊直政)
さて、井伊直親にとってはしばらくは順風が吹いていましたが、長くは続きませんでした。
井伊家の重臣に小野政次という人物がいましたが、井伊家の当主である井伊直親と小野政次の間は決して穏やかとは言えませんでした。
そして小野政次が今川氏に讒言したことで、井伊直親は謀叛の疑いをかけられ謀殺されてしまいます。
この事件が1563年。
井伊直親が謀叛の疑いをかけられたということは、息子の虎松の命も危険にさらされましたが、どうにか生き延びることができています。
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井伊直虎と井伊直政の関係とは
井伊直親が亡くなったことで、井伊氏は後継者選びを急ぐことになります。ここで井伊家の当主となったのは第20代の当主であった井伊直平。井伊直平は当時は次郎法師と名乗っていた井伊直虎にとっては曾祖父にあたります。この曾祖父が再び当主の座におさまったことで、井伊氏はどうにか命脈を保っています。
しかし井伊直平も今川氏の命令で出陣した際、謀殺されてしまいます。
これが1563年のこと。再び当主となった井伊直平ですが、その期間はごく短かったようです。
井伊氏には男子の後継者がいなくなってしまいました。
井伊直平が亡くなったことで次郎法師が還俗して井伊直虎を名乗り、おんな城主として井伊家の領地を守ることになります。
井伊家を守る立場となった井伊直虎ですが、これを疎ましく思ったのが小野政次。小野政次は今川義元の後継者となった今川氏真に取り入り讒言。
井伊直虎はおんな城主たる立場を追われ、実質的に小野政次が井伊家の領地を奪い取ってしまいます。
ここで虎松の命が危ないと考えた井伊直虎は、虎松を三河に逃すとともに、井伊直虎自身も小野政次とは距離を置いて雌伏のときを過ごします。
さて、井伊氏にとっては巨大な勢力であった今川氏ですが、代が今川氏真になってからは衰退の一途をたどります。
今川氏は武田信玄と徳川家康に攻め込まれます。今川氏真は生き延びることはできたものの、1569年に大名としての今川氏は滅亡をします。
このとき井伊直虎は、いち早く徳川家康に接近。
井伊谷から小野政次を追放することに成功、井伊直虎たちは小野政次を執拗に探し、最後はその命を奪います。
今川氏攻略では、武田氏と徳川氏の目的は同じでした。ただ、織田氏と同盟を結ぶ徳川氏と、武田氏は本来は敵味方の立場。
武田信玄が上洛を画策したとき、武田信玄と徳川家康は三方が原で激突をします。
戦いは武田信玄の大勝で終わるとともに、徳川氏の庇護下にあった井伊谷も、武田氏に蹂躙されてしまいます。
もっとも武田信玄はこの直後に病死。井伊谷は再び井伊氏の元に戻ります。
ところで、この間も虎松は三河にいましたが、1574年、虎松が14歳を迎えたころ井伊谷の地に戻ってきます。
そして井伊氏は徳川氏との仲をもっと深めるべく、周囲の画策の元、虎松は徳川家康の鷹狩の場に待ち伏せをして徳川家康との面会を果たします。
徳川家康はすぐさま虎松を小姓として召し抱え、300石を与えるとともに万千代の名前を与えます。
万千代は徳川家康の元で精進。
間もなく3000石を与えられ井伊谷の地を与えられます。紆余曲折があったものの、このとき名実ともに井伊谷は井伊氏の元に戻ります。
もっとも、井伊家の当主となっていたのは井伊直虎。
井伊直政も井伊氏がもっとも苦しい時を乗り越え、自らを陰ひなたとなり養育してくれた井伊直虎に対して感謝の気持ちがありました。
そのため、井伊直政は万千代のまま22歳になるまで元服することもなく、家督を相続することも拒んできました。
一方、井伊直虎も井伊直政の成長を見守り続け、井伊直政の領地が2万石に加増された後、自らの役割が終わったとばかりに井伊直虎の名前を捨て、祐圓という名前の尼僧となり、1582年に生涯を閉じます。
井伊直虎と井伊直政に、直接の血縁関係はありません。
しかし、井伊直虎は母のように井伊直政に接し、その成長を優しく見守り続けた。
そして、井伊直政が独り立ちしたことを確認するとともに、あっさりと家督を井伊直政に譲った。
そのような関係であったように思えます。
さいごに
この記事では、井伊直親・井伊直政と井伊直虎の関係についてご案内をしてきました。
具体的には井伊直虎を軸として、井伊直虎と井伊直親、井伊直虎と井伊直政の関係に分けて簡単にご案内をさせていただきました。
知名度はそれほど高くはない井伊直虎ですが、井伊直虎がいたからこそ井伊氏は戦国時代を生き延びることができた。
そのように考えることが出来るのではないでしょうか。
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