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徳川秀忠と真田氏の関係はどうだったの?
徳川秀忠は江戸幕府の第2代将軍。しかし、将軍になるまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。その一つの理由が徳川秀忠自身の器量。そしてその器量を測るうえで大きな影響を及ぼしたのが真田氏です。
この記事では徳川秀忠と真田氏。
より具体的には、徳川秀忠と、真田昌幸や真田信之との関係についてお伝えしていきます。
徳川秀忠とは
徳川秀忠は、徳川家康の3男として1579年に誕生。嫡男である徳川家光に将軍職を譲った後、1632年に52歳の生涯を閉じています。
徳川秀忠は3男。本来であれば徳川家康の後継者にはなり得ない存在でした。
しかし、徳川家康の嫡男であった松平信康は、織田信長に謀叛の疑いをかけられ1579年に切腹。
次男の結城秀康はいくつかの理由から幼少時は父の徳川家康から遠ざけられ、さらに徳川家康と豊臣秀吉が融和をしたとき、豊臣秀吉の養子にさせられてしまいました。
また、豊臣秀吉に後継者が誕生すると、さらに関東の名門であった結城氏に養子に出され、結城秀康となっています。
結城秀康は徳川家康の次男。長幼の順でいえば結城秀康こそ第2代将軍になるはずでしたが、このような経緯から2代将軍になることはありませんでした。
では、徳川秀忠がすんなりと徳川家康の後継者になったのかというと、必ずしもそうではありません。
徳川家康が後継者を決めるとき重臣に諮ったと伝えられていますが、その時の後継者候補は結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉の3人でした。
松平忠吉は徳川家康の4男。つまり徳川家康の後継者候補は、次男、3男、そして4男であったことが分かります。
次男と3男の後継者争いならば理解ができます。しかし、そこに4男が加わってきた。
言い換えれば、徳川秀忠の器量に疑問符がついていた何よりの証拠になります。
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徳川秀忠と真田昌幸の関係とは
徳川秀忠の器量を危ぶむ声があったのはどうやら事実のようです。その声を作り出したのが真田昌幸。
徳川秀忠と真田昌幸が戦ったのが第2次上田合戦。
徳川秀忠の第2次上田合戦での手痛い失敗が、その後の徳川秀忠の武将としての評価を決定づけることになります。
第2次上田合戦は、関ヶ原の戦いの時に起こっています。関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成と東軍の徳川家康がぶつかります。
このとき、徳川家の別動隊として動いていたのが徳川秀忠の軍です。徳川家康は東海道を西進していたのに対して、徳川秀忠は中山道を西進します。
徳川秀忠の軍は別動隊と書きましたが、その人数は38000人。
徳川家の重臣である大久保忠隣や榊原康政なども従軍していたことから、別動隊ではなく徳川秀忠の軍こそが本隊であったとする意見もあるようです。
徳川秀忠の軍は中山道を西に向かいます。
途中にあったのが真田昌幸が籠城する上田城。真田昌幸はすでに西軍につくことを明らかにしていました。つまり徳川秀忠にとって真田昌幸は敵でした。
もっとも、真田昌幸の兵力はわずかに2000人。しかも籠城しているわけですから、徳川軍は、攻撃せず無視して通り過ぎることも十分に可能でした。
しかし、徳川秀忠は後顧の憂いをなくすため真田昌幸に接触をします。具体的には、真田昌幸に降伏を勧めます。
このとき、真田昌幸は考える時間が欲しいということで返事を引き延ばします。
いつまでたっても降伏の返事がないことにいら立った徳川秀忠は催促をしますが、このとき真田昌幸の態度は一変。
降伏どころか戦う意志をはっきりとさせます。
徳川秀忠は激怒。真田昌幸の上田城に対して攻城戦をしかけますが、徳川秀忠と真田昌幸では戦いの経験値に歴然とした差がありました。
たかだか2000人の真田昌幸の軍勢に、38000人の徳川秀忠の軍は蹴散らされ、徳川秀忠の軍は大きな損失を被ることになります。
その後、徳川秀忠は上田城を攻めるのを諦めて西進をしますが、川の氾濫などもあり関ヶ原に到着したのは9月20日頃。
関ヶ原の戦いは9月15日に終わっていて、徳川秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかったという大失態をおかします。
徳川秀忠は父の徳川家康に面会を求めますが、激怒していた徳川家康はこれを無視。家臣の取り成しで徳川秀忠が徳川家康に会えたのは、この数日後であったと言われています。
真田昌幸は降伏すると見せかけ徳川秀忠を数日間待たせていました。さらに上田合戦も数日にわたって行われました。
徳川秀忠が真田昌幸の戦術にうまく乗せられ、無為の日を送り、さらにその後は多大の犠牲を払いながらも、何も得られず父である徳川家康の不興を買ってしまった。
このことは、当時21歳の徳川秀忠の心に深く焼き付いたことは言うまでもありません。
また、徳川秀忠の失態は、徳川秀忠の武将としての評価の低さに、大きな影響を及ぼしています。
それが、徳川家康の後継者選びに影を落としたのは確かですが、徳川家康は最終的には徳川秀忠を後継者に選んでいます。
このときの徳川家康の評価基準は、律義で自分の言うことを聞く子供ということでした。
徳川家康の子供には、武将として有能な子が多かったと言われています。
たとえば、嫡男の松平信康。また、次男の結城秀康や4男の松平忠吉も勇壮で戦場での武功も輝かしいものがありました。
しかし、このことは同時に徳川家康を悩ませる元にもなりました。
有能で武将としての武功もある子供を持つことは親としてうれしいことではあるけれど、こうした子を後継者にすると、次第に自分の言うことを聞かなくなる。
徳川家康が恐れたのはまさにこの点でした。
では、徳川秀忠はどうだったのでしょうか。
徳川秀忠は、徳川家康の子供の中では能力が劣っていました。また、武将としての功績もほとんどありませんでした。しかし、親には決して逆らわないという美点を持っていました。
江戸幕府ができて後、何より大切なのは江戸幕府を守り通すこと。この一点を考えると有能な子より、自分の言うことを聞く子供こそが後継者にふさわしい。
徳川家康の心の機微までは分かりませんが、徳川家康の後継者選択基準はコントロールができる点にあったと考えられています。
実際、徳川家康は徳川秀忠に将軍の座を譲った後も、いわゆる大御所政治を行い、実質的な権力を握り続けたと言われています。
徳川秀忠は真田昌幸と戦った第2次上田合戦で手痛い失敗をしています。
上田合戦は、徳川秀忠の武将としての評価を決定づける戦いとなり、後継者争いにも影を落とすと言われていました。
実際、家臣の中には武将としての評価の低さから、後継者になることに対して危惧する声もあったと言われています。
結果的に、真田昌幸に翻弄された過去の失敗は将軍職に就くにあたっての支障とはならなかったようですが、徳川秀忠に心の傷が残ったのは確かなこと。
徳川秀忠が憎むとすればその対象は真田昌幸であるはずですが、実際の憎しみの対象は、真田昌幸の嫡男であった真田信之に向かったとも言われています。
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さいごに 徳川秀忠と真田信之の関係とは
真田氏は、関ヶ原の戦いで一族を二分させています。
真田昌幸と真田昌幸次男の真田信繁は西軍に属し、長男の真田信之は東軍に従っています。
関ヶ原の戦いは東軍の勝利。そのため、真田昌幸と真田信繁は九度山に蟄居を命じられますが、真田信之は大名として生き残ります。
真田信之が東軍についた理由の一つに妻の存在があります。
真田信之の妻は、徳川四天王の一人本多忠勝の娘である小松姫。また、小松姫は真田信之に嫁ぐのに際して、形式上徳川家康の養女となっています。
真田信之は徳川家と深い縁で結ばれ、徳川家康自身も真田信之を評価していたと言われています。
そのため、徳川家康が実権を握っている間は、真田信之と徳川家の関係は安泰でした。
しかし徳川家康が亡くなり、徳川秀忠が実権を握ると、この関係は大きく変化をします。
徳川秀忠は真田昌幸に苦汁を飲まされています。それが徳川秀忠の評価を落としたことは、徳川秀忠自身が知っています。
そのため、徳川家康亡き後の徳川秀忠は、真田信之に対して厳しく接したと言われています。
徳川秀忠は多くの大名を改易に追い込んだことで知られていますが真田家もその対象。
改易を恐れた真田信之は幕府に献身的な奉公をしたと伝えられています。また、真田信之は徳川家康亡き後の1622年に松代藩への転封を命じられています。
命じたのはもちろん徳川秀忠。松代藩に移ったことにより、真田家は石高を増やしてはいます。
しかし、松代藩は信州とはいえ、真田家にとっては所縁のない土地。
松代藩への転封は徳川秀忠の嫌がらせとも言われており、真田信之も激怒をしたと言われています。
真田昌幸の存在は徳川秀忠の人生に大きな影響を及ぼしました。その負の影響が、真田昌幸の子である真田信之にも及んでいる。
徳川秀忠と真田家には、どうやら深い負の関係があったと言えそうです。
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