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真田昌幸への名言から探る豊臣秀吉や徳川家康との関係!

真田昌幸への名言から探る豊臣秀吉や徳川家康との関係

この記事では真田昌幸に対する名言から真田昌幸と豊臣秀吉、そして真田昌幸と徳川家康の関係を探ろうとしています。

ところで真田昌幸とはどのような人物だったのでしょうか?

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真田昌幸とは

真田昌幸は1547年に生まれ、1611年に亡くなります。真田昌幸は真田幸村(真田信繁)の父としても知られていますが、真田昌幸の生きた時代はまさに戦国時代。

真田昌幸は生き残ることが難しい小大名でしたが、真田家そのものは紆余曲折を経ながら江戸時代まで続いています。現在の知名度という点では真田幸村に劣るかもしれませんが、戦国時代の名将の一人に数えられる人物です。

真田昌幸の周囲には常に大きな大名がいました。たとえば武田信玄、武田勝頼、北条氏政、北条氏直、上杉景勝などの大名があげられます。

真田昌幸は周辺の大名の動静を見極めながら、真田家の生きのこりのために周辺の大名と味方になったり敵になったりを繰り返しています。

やがて天下が治まるにつれ真田昌幸も旗幟を鮮明にします。具体的には天下を取った豊臣秀吉に臣従し、徳川家康の与力大名におさまります。

しかし、真田昌幸の豊臣秀吉に対する態度と、徳川家康の態度にはその温度差に大きな違いがありました。そして、そのことが真田昌幸の運命を決定づけることになりました。

真田昌幸に対する名言から探る豊臣秀吉との関係

真田昌幸が豊臣秀吉に臣従したのは1585年。1582年の本能寺の変後、豊臣秀吉が天下取りにまい進する時期に重なります。

最終的に豊臣秀吉は1590年の小田原攻めの勝者になることで天下の覇者となりますが、真田昌幸が豊臣秀吉に臣従したのはそれよりずっと前。

当時、真田昌幸は北条氏と領地の問題で諍いがありました。そのため真田昌幸は豊臣秀吉に近づいたものと思われますが、先を読む目の確かさはやはり真田昌幸の慧眼によるものと思われます。

ところで、豊臣秀吉の真田昌幸に対する名言としては「表裏比興の者」があります。

この名言の中の「比興」は現在では「卑怯」の文字が充てられるようですが、当時は少しばかり意味が異なっています。比興とは、老獪といった意味に近く、武将に対してはむしろ褒め言葉となっていました。

真田昌幸に対する名言「表裏比興の者」とは、表裏が定かではなく老獪であるということ。豊臣秀吉は真田昌幸が「表裏比興の者」だからこそ戦国時代を生き抜いてこられたと賞しています。

真田昌幸に対する名言から探る徳川家康との関係

上田城

上田城



 

 

 

 

 

 

 

 

 

真田昌幸は関ヶ原の戦いで西軍につき敗れます。真田昌幸が西軍に味方したのは、亡き豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼を守るためとも伝えられています。

しかしもっと現実的なのは真田昌幸は徳川家康が嫌いであったこと。徳川家康が嫌いだったから西軍についたという説もあるようです。

また、真田昌幸には徳川家康より戦が巧いという強烈な自負がありました。実際、真田昌幸は戦闘で徳川家に2度勝利をしています。

最初は1585年の第1次上田合戦。

徳川家と北条家の連合軍7000人が真田昌幸の居城である上田城を取り囲みます。真田昌幸の兵力は2000人。数では勝ち目はありませんが、真田昌幸は敵方の兵を巧みに城内に引き込み、敵方の兵1300人を死傷させています。

2回目は1600年の第2次上田合戦。

関ヶ原の戦いに向かうため徳川秀忠の軍勢38000人が中山道を西進します。その途中にあったのが真田昌幸の居城である上田城で兵力は2000人。

徳川秀忠は真田昌幸の調略を試みますがじらされたあげく失敗。また攻城戦に持ち込んでも真田昌幸の絶妙な采配で時間ばかりを無駄にします。

その後、徳川秀忠は上田城後略を諦め関ヶ原に向かいますが、関ヶ原についたときはすでに戦いの決着はついていました。

第1次上田合戦も第2次上田合戦も局地戦で天下の帰趨を左右するほどのものではありませんでした。しかし、何れも少ない兵力で徳川の大軍を翻弄させたのは事実。

また、この2つの出来事が徳川家康を恐れさせたのも事実のようです。

徳川家康の真田昌幸に対する名言としては「稀代の横着者」があります。

この名言の中の「横着者」は、「横」が「よこしま」、「着」が「身についている」ということで、「稀代の横着者」とは「世にもまれなほどよこしまな心が身についている。」という意味のようです。

この名言は、時の権力者の近くに身をおくため敵味方をころころと変えてきた真田昌幸を批判した言葉だと思われますが、徳川家康が真田昌幸のことをそれだけ恐れていたとも考えられます。

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真田昌幸の最期

上田城

上田城



 

 

 

 

 

 

 

 

真田昌幸は関ヶ原の戦いで敗れ、久度山での蟄居を命じられます。そして失意の中、1611年に亡くなります。

しかし徳川家康は真田昌幸が亡くなったことを容易に信じなかったと伝えられています。

また、大坂の陣が始まる前、真田が大阪に入城したと聞いた徳川家康は最初真田昌幸が入城したと思い込んだと伝えられています。

真田昌幸の子である真田幸村が大阪城に入ったのは1614年ですから、真田昌幸が亡くなって3年が経過しても徳川家康は真田昌幸の病死を疑っていたことがわかります。

最終的に子の真田幸村が大阪城に入ったことを知った徳川家康は大いに安堵をしたようです。

真田昌幸は周辺の有力大名との間で離反を繰り返していました。真田家生き残りのためにはむしろ当然のことです。そのなかで、真田昌幸の人生にとてつもなく大きな影響を与えたのが豊臣秀吉と徳川家康。

真田昌幸の晩年は寂しかったようですが、長男の真田信幸は松代藩を残し、次男の真田幸村は名声を残した。その父親である真田昌幸はやはり戦国時代の名将に値するのではないでしょうか。


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