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西郷吉兵衛と西郷隆盛の名前に関するエピソードとは!

鹿児島の西郷隆盛像
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はじめに

この記事では、西郷吉兵衛と西郷隆盛の名前に関するエピソードについて、ご紹介をしていきます。

西郷隆盛は歴史上とても著名な人物ですが、西郷吉兵衛はそれほど知られてはいません。西郷吉兵衛と西郷隆盛は親子。西郷吉兵衛が父で、西郷隆盛は子になります。

そして、西郷吉兵衛と西郷隆盛については名前に関して、とても有名なエピソードがあるようです。

これから、そのエピソードをご紹介していきますが、その前に当時の武士の名前のつけ方について、ご案内をさせていただきます。

名前とは 幼名と通称と諱(いみな)

当時の武士階級の名前には、幼名と通称と諱(いみな)がありました。まずはその違いについてお伝えしていきます。

幼名

江戸時代まで、武士や貴族などは一生の間に、複数回名前を変えることがありました。

その始めが「幼名」です。幼名が使われるのは概ね元服まで。また、幼名については代々受け継がれることが多いという特徴がありました。

※ 参考

たとえば、江戸幕府の初代将軍 徳川家康の幼名は竹千代。

二代将軍の徳川秀忠は、徳川家康の長男ではなかったので幼名は竹千代ではありませんでした。しかし、三代将軍の徳川家光は、徳川秀忠の長男であったため幼名は竹千代でした。

通称

通称は正式な名前ではないけれど、世間一般に知られている名前です。

本名は「諱」ですが、諱は対外的には周知をさせないという習慣があったため、一般的には通称の方が知られていました。

諱(いみな)

諱は、その人物の本名を表しています。もっとも諱は「忌み名」に通じるとされ、元々は亡くなった後の名前。

江戸時代になると、このあたりの解釈があいまいとなり、本名=諱とされていたようですが、それでも諱の考え方は残り、通常の生活の中で諱を使うことは基本的にはなかったようです。

通称と諱の併用の禁止

江戸時代までは、通称と諱の併用が認められていました。しかし、明治2年から明治5年までに複数回の太政官布告が出され、戸籍に「氏」と「名」を記載されることになりました。

さらに、それまで認められていた複数の名前も一つに統一すべきことが決められました。その名前については、通称を使うことも、諱を使うことも任意とされてはいましたが、何れにしても一つだけを選ばなければいけない。

そのように定められています。

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西郷吉兵衛の略歴と名前の変遷

鹿児島の西郷隆盛像
西郷吉兵衛は1806年に生まれ、1852年に亡くなります。生まれたのは薩摩藩。西郷吉兵衛は島津家の下級藩士の一人でした。

西郷吉兵衛が政佐と結婚した時期については、はっきりとはしていません。しかし、西郷吉兵衛と政佐の間には少なくとも7人の子がいたと言われていて、長男が後の西郷隆盛になります。

西郷吉兵衛が病死したのは1852年。西郷吉兵衛が亡くなったことにより、長男の西郷隆盛が家督を相続しています。

では西郷吉兵衛の名前の変遷についてご案内をします。

西郷吉兵衛の幼名は小吉。その後、元服により諱を隆盛としています。

なお、通称についての移り変わりは定かではありませんが、1834年に九郎、1849年に吉兵衛としたことが確認されています。

したがって、西郷吉兵衛が亡くなった時の、通称は吉兵衛、諱は隆盛であったことがわかります。

西郷隆盛の名前の変遷(明治維新まで)

西郷隆盛の名前についての変遷をご案内します。西郷隆盛は、西郷吉兵衛と政佐の長男として1828年に生まれます。

幼名は小吉。父の西郷吉兵衛の幼名と同じです。

また、元服後の諱は隆永。幼名は同じでも、当然のことながら諱は父が隆盛、子は隆永と異なっています。

なお、通称については吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と度々変えています。この中で、吉兵衛は父の通称と同じですが、一般的には吉之助が知られています。

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西郷吉兵衛と西郷隆盛の名前に関するエピソードとは

西郷隆盛の明治維新を迎えるまでの通称は吉之助、諱は隆永になります。

したがって明治になり、通称と諱の併用が認められなくなったことで、西郷隆盛もどちらを使うのかの選択をしなければならなくなりました。

このときに考えられるのは、西郷吉之助あるいは西郷隆永です。

しかし、実際に届けられたのは隆盛。この時から1877年の西南戦争で亡くなるまで、西郷吉之助でも西郷隆永でもなく西郷隆盛を名乗ることになります。

では、どうして西郷吉之助でも西郷隆永でもなく西郷隆盛になったのでしょうか。これについては、届け出をしたのが本人ではなかったというのが最大の原因のようです。

江戸から明治に時代は変わったとはいえ、まだまだ世の中が安定しているとは言い難い状況でした。

名前の届け出をするとき、西郷隆盛は函館戦争を終えて郷里の鹿児島に帰る途中とも言われており、西郷隆盛自身は届け出をすることができませんでした。

しかし、この時点で西郷隆盛には叙任の話があり、叙任のために正しい名前にしておく必要がありました。そこで困った明治政府は、西郷隆盛の友人である吉井友実に確認をしています。

もっとも吉井友実も他の人と同じように、西郷隆盛を吉之助としか呼んだことしかなく、西郷隆盛の正しい諱についてはうろ覚えの状況。そして出てきた答えが「隆盛」。

吉井友実は、西郷隆盛の父である西郷吉兵衛の諱と西郷吉之助の諱を混同したようですが、結果として西郷吉之助隆永は西郷隆盛となっていきます。

おわりに

鹿児島の西郷隆盛像
この記事では、西郷吉兵衛と西郷隆盛の名前に関するエピソードについて、ご案内をしてきました。

西郷吉之助隆永が西郷隆盛になってしまったことについては、どうやらいくつかの説があるようですが、今回はその中で有力な説の一つをご案内してきました。

もっとも、西郷吉之助隆永が西郷隆盛になってしまったことについて本人が届け出をせず、友人の吉井友実が深く関わっていたのはどうやら事実のようです。

また、当然のことながらその話は西郷隆盛本人にも伝わります。

そのときの西郷隆盛は、自分の名前が変わってしまったことに驚きながらも、そのままでよいということで変更することもなかったようです。

西郷隆盛については人物の大きさが讃えられているとこですが、この名前のエピソードもその一端を示すものなのではないでしょうか。

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