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目次
南渓瑞聞・傑山・昊天(龍潭寺)と井伊氏との関係とは
この記事では、龍潭寺(りょうたんじ)の南渓瑞聞(なんけいずいもん)・傑山(けつざん)・昊天(こうてん)についてご案内します。また、南渓瑞聞・傑山・昊天と井伊氏との関係についも簡単にご案内をします。
龍潭寺(りょうたんじ)とは
龍潭寺は、現在の浜松市北区引佐町にある臨済宗の寺院です。寺の起源は733年。行基が開いたと言われています。この地は井伊氏が治めていた土地。そのため古くから井伊氏の菩提寺となっていました。
また、寺院の名前も何回か変わってはいますが、1560年に井伊家の当主が桶狭間の戦いで亡くなり、その法号から龍潭寺の名前となり現在に続いています。
なお、龍潭寺の庭園は小堀遠州作と伝えられ、国の名勝に指定されています。
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南渓瑞聞(なんけいずいもん)とは
南渓瑞聞の生年は不明、没年は1589年です。
南渓瑞聞は、井伊家第20代井伊直平の実子とされていますが、一説には養子とも伝えられています。
龍潭寺は井伊家の菩提寺。
さらに南渓瑞聞自身も井伊氏の出であることから、南渓瑞聞と井伊氏との間には深い関係のあったことがうかがえます。
南渓瑞聞は僧籍にありながらも、井伊家を支える立場であったのではないでしょうか。
時は戦国時代。
小さな領主に過ぎなかった井伊氏は、常に近隣の諸大名の動向を注視しなければならず、実際にこの時代の井伊氏は今川義元に従属する立場でした。
ただ、その舵取りは難しく南渓瑞聞に頼ることも多かったようです。
具体的には、井伊直親の亡命を助けたこと、井伊直虎を次郎法師として出家させたこと、井伊氏の後継者を井伊直虎にすることに尽力をしたことなどが今に伝えられています。
南渓瑞聞は井伊直親の亡命を助けた
井伊氏の第22代当主は井伊直盛。井伊直盛には後継となる男子はおらず、授かったのは娘一人(後の井伊直虎)のみ。そこで井伊直盛は、一族の井伊直満の子供(後の井伊直親)を養子に迎え、自らの娘と結婚させたうえで後継にします。
しかし、その動きを快く思わない家臣の小野政直(小野和泉守)の讒言で、井伊直満は殺されてしまいます。
井伊直満が今川氏に殺されたことで、その子供である井伊直親の命も風前の灯。井伊直親は小野政直に命を狙われますが、それを救ったのが南渓瑞聞。
南渓瑞聞は密かに井伊直親を、小野政直の目が届かない信州に逃がしたと言われています。
南渓瑞聞は井伊直虎を次郎法師として出家させた
井伊直親は信州に逃亡しました。その結果、井伊本家の血筋を引くものは井伊直盛の娘一人のみ。もっともこの一人娘は、婚約者である井伊直親はすでに亡くなっていたと思っていたようです。また、他の者から言い寄られることを防ぐために出家を考えます。
通常、女性が出家すると尼僧になります。しかし、尼僧には再び現世に戻る還俗は認められていません。
そこで知恵を働かせたのが南渓瑞聞。
南渓瑞聞はこの娘を次郎法師として出家させます。次郎というのは井伊家の後継者がつける名前。法師というのは尼僧ではなく僧侶。
つまり、南渓瑞聞はこの娘が将来の井伊家の当主となる可能性を考え、還俗が可能な男性僧侶の名前をつけたと言われています。
南渓瑞聞は井伊氏の後継者を井伊直虎にした
信州に逃げた井伊直親は、約10年後に井伊氏の本拠地である井伊谷に戻り、井伊家の当主におさまります。しかし、小野政直の後継である小野政次の讒言により、今川氏真の家臣に殺されてしまいます。
井伊直親の死後、以前に井伊家の当主を務めていた井伊直平が再び井伊家当主の座に就きます。
ただ井伊直平も間もなく亡くなり、井伊本家を継げる男子もまったくいなくなってしまいました。
そこで南渓瑞聞は僧籍にあった次郎法師を還俗させます。
その結果として誕生したのが次郎法師改め井伊直虎。
南渓瑞聞の奇策により、井伊氏は命脈を保つことができています。
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傑山・昊天とは
傑山は生年は不詳、没年は1592年です。昊天は生年は不詳、没年は1644年です。
傑山も昊天も南渓瑞聞の弟子。
南渓瑞聞は龍潭寺の2世住持であるのに対して、傑山は3世住持、昊天は5世住持になります。
また昊天については、後に井伊家の当主となった井伊直政に命じられて、彦根にも龍潭寺を開山させています。
傑山も昊天も南渓瑞聞の弟子。しかも井伊家の菩提寺である龍潭寺の住持ですから、傑山も昊天も、井伊氏と深い関係があったことは間違いないところです。
ただ、傑山・昊天と井伊氏の具体的な関係については、南渓瑞聞ほどはっきりしたことはわからないようです。
傑山についてわかっているのは、傑山は弓の名手で1584年の小牧長久手の戦いで井伊直政に従って参陣をしていること。
昊天についてわかっているのは、昊天は長刀の名手で小牧長久手の戦いに参陣していることと、前述のとおり彦根にも龍潭寺を開山させたことくらいです。
傑山も昊天も井伊氏との関係が深かったのは間違いないと思いますが、果たしてどの程度の関わりがあったのか、興味がそそられるところです。
さいごに
この記事では、龍潭寺の住持を務めた南渓瑞聞・傑山・昊天について、そして井伊氏との関係について簡単にご紹介をさせていただきました。
特に南渓瑞聞が活躍した時代は、井伊氏にとってもっとも危機が続いた時代です。
南渓瑞聞がいたからこそ、井伊氏はかろうじて命脈を保つことができた。
そのような気がしています。
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