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はじめに
この記事では、小野和泉守政直・小野但馬守政次と井伊氏との関係について、ご紹介をしていきます。小野和泉守政直と小野但馬守政次は親子。
そして、小野和泉守政直も小野但馬守政次も家老として歴代の井伊氏に仕える立場です。
もっとも、小野和泉守政直や小野但馬守政次が生きたのは戦国時代で、下剋上も当たり前の時代でした。
小野和泉守政直・小野但馬守政次も井伊家の重臣でありながらも忠臣というけではなく、井伊氏から見たら、むしろ獅子身中の虫のような存在であったようです。
では、小野和泉守政直と井伊氏との関係。
そして、小野但馬守政次と井伊氏との関係に分けて、ご紹介をしていきます。
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小野和泉守政直と井伊氏との関係とは
小野和泉守政直の生年は不詳、没年は1554年になります。小野氏は遅くとも小野和泉守政直の父の時代から井伊氏に仕えていたと伝えられており、小野和泉守政直自身も井伊家の重臣という立場で戦国の世を生きています。
小野和泉守政直が仕えた主君は、井伊家の第22代当主である井伊直盛でした。
井伊直盛には男子の子供は女子一人のみ。女子を後継者にすることはできません。
そこで井伊直盛がとった策は、自らの叔父にあたる井伊直満の子(後の井伊直親)と自分の娘(後の井伊直虎)を婚姻させ、井伊直親を井伊家の第23代当主とするものでした。
しかし、井伊家の重臣である小野和泉守政直がこの措置を快く思わなかったようです。
これは井伊家の代が変わると、自分の権力を誇示することができなくなるためと思われますが、一説には小野和泉守政直と井伊直満が不仲であったからとも言われています。
ところで、時は戦国時代。弱小の井伊氏は隣国の今川家に従属する立場でした。
ただ、武田氏も井伊氏の領地を狙っていて、井伊直満は武田氏の侵攻に備えるため戦支度をしていました。
この動向を見事に利用をしたのが小野和泉守政直です。
小野和泉守政直は駿河の今川義元に、井伊直満は今川氏に謀叛するための軍備をしていると事実無根の讒言をします。
今川義元は、井伊直満とその弟の井伊直義を今川氏の本拠地である駿府に呼び出したうえで殺害をしてしまいます。
小野和泉守政直の動きは止まりません。
小野和泉守政直は今川氏の手によって井伊直満を謀殺させるとともに、その子供である井伊直親を自らの手によって葬ろうとします。
もっとも、この動きは事前に察知され井伊直親は信州にのがれることができています。
小野和泉守政直が亡くなったの1554年。死因は病死と伝えられています。
では、小野和泉守政直は謀叛人でしょうか。
井伊氏にとって小野和泉守政直が奸臣であったことは否定できないように思えます。
ただ、謀叛人であったかというと疑問が生まれます。
小野和泉守政直は、主君である井伊直盛を殺害はしていません。小野和泉守政直は、井伊家の中で権力を振るいたかった人物のように思われます。
小野和泉守政直が謀殺をしたのは、井伊氏の一族ではあっても主君ではなく、あくまでも井伊氏一族です。
井伊家の当主である井伊直盛から見たら、井伊直満は一族ではあっても小野和泉守政直と同じく家臣の一人ということになります。
また、小野和泉守政直は井伊直満の子供の井伊直親の殺害を図りますが、井伊家の重臣である小野和泉守政直から見たら、謀叛人の子供を誅殺するという大義名分もあります。
小野和泉守政直は奸臣ではありますが、果たして謀叛人とまで言えるのか。
小野和泉守政直がとった行動は、むしろ井伊家における権力闘争の結果と考えるのは善意の解釈に過ぎるのでしょうか。
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小野但馬守政次と井伊氏との関係とは
小野但馬守政次の生年は不詳、没年は1569年になります。小野和泉守政直の病死により、嫡子である小野但馬守政次が家督を継いでいます。
この家督相続で井伊家にはある事件が起こります。
それは小野和泉守政直に命を狙われ信州に逃れていた井伊直親が、井伊氏の本拠地である井伊谷に帰還し、さらに井伊直盛の後継者となったことです。
小野氏にとって井伊直親は好ましくない存在。
その帰還をやすやすと許したのは、小野但馬守政次にはまだそれだけの権力がなかったのか、あるいは、井伊直親に対して小野但馬守政次には父とは別の思いがあったのかは定かではありません。
ところで、井伊氏にとってさらに大きな事件が起こります。
それは1560年の桶狭間の戦い。
桶狭間の戦いでは主筋にあたる今川義元が討死をします。
また今川家の有力武将も少なからず桶狭間の戦いで命を落としていますが、井伊家の当主であった井伊直盛もこの戦いで命を落とします。
井伊直盛は死の間際に、井伊家の後継に井伊直親を指名するとともに、一族の中野直由を井伊直親の後見とすることを遺言します。
井伊直親はこのとき25歳の頃。本来であれば後見が必要な年齢ではありません。
井伊直盛があえて後見を指名したのは、自分の死後、小野但馬守政次が専横することを避けるためと言われています。
小野但馬守政次は井伊家の重臣でした。小野但馬守政次が小野家を継いだのは1554年。桶狭間の戦いが1560年。約6年の間に、小野但馬守政次は主家を脅かす存在になっていたのでしょうか。
少なくとも井伊家当主の井伊直盛は、家臣である小野但馬守政次の存在を恐れていた。このことについてはどうやら間違いではないようです。
桶狭間の戦いによって今川氏の勢力は衰えていきますが、今川氏に従属する井伊氏の立場は変わっていません。
しかし時は動いています。
井伊氏と同じように今川氏に従属していた松平氏(後の徳川家康)は、今川氏を離れ織田信長に急接近を図ります。
この動きを見て、井伊直親は徳川家康への接近を図ります。
井伊直親と小野但馬守政次は、父同士の因縁があったためか、一般的には不仲と考えられています。
井伊家の当主である井伊直親と、その井伊家の権力をそぎ落としたい小野但馬守政次は、当然のことながら別の動きをします。
徳川家康に心を寄せる井伊直親に対して、小野但馬守政次は今川氏真に接近します。そして小野但馬守政次は今川氏に井伊直親の動向を報告するようになります。
井伊直親の離反の動きに激怒した今川氏親は井伊直親を駿府に呼び寄せますが、その途中で今川家の重臣に殺されてしまいます。
これが1563年のこと。
井伊直親が亡くなっても井伊家の当主になれる男子はまだ存在をしていました。前述の中野直由やすでに隠居をしていた井伊家第20代当主井伊直平です。
実際、井伊直親の後継となったのは井伊直平ですが、間もなく井伊直平も中野直由も亡くなります。
井伊家の後継となったのは井伊直盛の一人娘。当時は僧侶として次郎法師と名乗っていましたが、還俗をして井伊直虎となります。
小野但馬守政次は女性であれば操縦しやすいと考えたのでしょうか。しかし井伊直虎は率先して政治を行います。
井伊直虎が自分の意のままにならないと考えた小野但馬守政次は、再び今川氏真に取り入って井伊直虎の失脚を狙います。
そして2年後、小野但馬守政次は井伊直虎の追い落としに成功。
井伊谷は今川氏の直轄になるとともに、小野但馬守政次は代官に任命されて実質的に井伊谷を手中におさめます。
ただ、小野但馬守政次は時勢を読み間違えていたようです。
今川氏真の勢力は弱まり、代わって三河の徳川家康や甲斐の武田信玄が虎視眈々と今川氏の領土を狙っていました。
井伊谷に侵攻をしたのは徳川家康です。
徳川氏の侵攻に抗いきれなかった小野但馬守政次は逃亡。そして大名としての今川氏も1569年に滅亡します。
井伊谷を捨て逃亡した小野但馬守政次ですが、間もなく捕えられ処刑をされ、合わせて小野但馬守政次の2人の子も命を落とします。
さいごに
この記事では小野和泉守政直と井伊氏との関係、小野但馬守政次と井伊氏との関係。それぞれに分けて、小野氏と井伊氏の関係についてご紹介をしてきました。
小野但馬守政次がした行為はまさに謀叛。
小野但馬守政次は、直接ではないにしても主君である井伊直親の命を奪っています。
また、その後に井伊家の当主となった井伊直虎を追い落とし、小野但馬守政次自身が井伊氏の領地を支配しています。
主筋の2人に刃を向けた小野但馬守政次は明らかに謀叛人といえそうです。
小野和泉守政直にしても小野但馬守政次にしても、井伊家にとっては奸臣であったことは間違いないようです。
しかし、小野和泉守政直の行為は井伊家内部の権力闘争であったのに対し、その子小野但馬守政次の行為は謀叛。
小野和泉守政直と小野但馬守政次が、井伊家に対してとった行動は似てはいますが非なるもの。
そのように思われますがいかがでしょか。
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