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武田信玄の名言で風林火山と人は城の2つをご紹介します!

武田信玄像
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武田信玄とは

甲斐源氏という名門に生まれ、甲斐国の守護大名でありながら、戦国大名としても周囲から恐れられたのが武田信玄です。

武田家は武田信玄の後継者である武田勝頼の代に織田信長に滅ぼされますが、それでも武田信玄の事績は色あせるものではありません。

歴史上、著名な人物についてはいくつもの名言が残されています。

名言そのものは本人が語ったとは限りませんが、それでも人となりを端的に示す言葉として、今でも多くの人に愛されています。

この記事では武田信玄の名言を2つご紹介し、合わせてその背景を考えてみたいと思います。

名言その1 風林火山

風林火山は武田信玄の名言ではなく、武田軍の軍旗(旗指物)に書かれていた文字です。

しかし、武田軍の強さは風林火山の文字に表され、この文字を見ただけで相手の戦意が喪失したとも伝えられています。

風林火山の元となったのは「孫子」です。

孫子は中国の春秋時代に書かれた兵法書で、戦国時代の武将にとっては一種のバイブルのようなもの。この書を愛好する武将も多かったようです。

風林火山の元となったのは

 

其疾如風

其徐如林

侵掠如火

不動如山

難知如陰

動如雷震

 

でこの文字を文章にすると「疾きこと風の如く、徐(静)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷の震うが如し」になります。

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「風林火山」の背景

軍旗に用いたのは最初の4節で、戦場に臨む武田軍の心意気を如実に示したものとして有名です。

この文字を見て想像するのは、武田軍はどっしりと落ち着いていて、しかも戦そのものが早いということ。

武田軍の強さを敵に誇示していることがわかります。

実際に武田軍は戦をすると、とても強いというのは有名でした。天下統一を目指していた織田信長でさえ武田信玄との戦を避けていた時期があります。

しかし、一方では全く別の見方をすることもできそうです。それは、基本的に武田軍は長期の戦をすることができなかったというものです。

武田信玄は武田家第19代の当主で、家臣の多くは古くから武田家に仕えています。

歴史があれば信頼関係も生まれやすいのでしょうが、家臣そのものが強い権力を持っていることも意味しています。

織田信長は新興の大名で、家臣も織田家成長の過程で増えました。

織田信長の家来は新しい者が多かったため、織田信長は中央集権化と職業軍人の育成を積極的に行うことができました。

中央集権化と職業軍人の育成ができれば、織田信長の命令でいつでも戦を始めることができますし、また1年中戦をすることも可能です。

一方、中央集権化はできなければ兵力の集中に時間がかかりますし、土着の武将が多ければ作物の収穫のことも気にかけなければいけません。

武田軍は強かったのは事実としても、1年中戦ができる軍団ではなく、かつ長期戦もできない軍団だった。風林火山にはそうした意味も含まれているように感じます。

名言その2 人は城

武田信玄の考えを示す言葉として「人は城」も名言として知られています。

人は城は、江戸時代初期に書かれた甲陽軍鑑に記述がみられることで有名になりました。

甲陽軍鑑は歴史書としての評価が低く、人は城についても創作が強く疑われています。ただ、武田信玄の考え方をよく言い表している言葉としては有名です。

「人は城」、正確には次の通りです。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」

その意味するところは、家臣たちが支えてくれたら、立派な城があるのと同じくらい国を守ることができる。

そのためには、情けを大切にし、仇を憎む心が大切である。そんなところでしょうか。

武田信玄は本拠地である甲斐国に、居城と言うべきものを持たなかったことで知られています。

その居城を持たなかったことを持つ必要がないと言い換えたところに、この言葉の意味があるように思われます。

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「人は城」の背景

武田信玄と上杉謙信の像武田信玄と上杉謙信の像

甲斐国は多くが盆地で周囲を山で囲まれていました。これは敵方からすれば攻めにくいということを意味しています。

また、武田信玄は領地の拡大に熱心でした。そのため戦は国外に出て行うことを常としていました。

自分の領地は地形的に敵から攻められにくい。また、領地拡大のための戦は国外で行う。

その2つの要素を考えれば、武田信玄が居城を持たなかった意味がよく分かってきます。

しかし、一方では別の意見もあります。それは城を作りたくても作れなかったというものです。

前述のとおり、武田信玄の戦は遠くで行います。このときに特に気になるのが兵站です。武器弾薬、そして食料の運搬に多くの費用を要した。これが武田家の戦です。

また、武田信玄の内政上の功績として信玄堤があります。

川の氾濫を抑え農作物の安定を図るための堤の構築は、武田家の領地経営で必要不可欠のものでした。しかし堤を作るにはたくさんの時間とお金が必要です。

お金がいくらあっても足りない。これが当時の武田家の実情ではないでしょうか。

お金がなかったから城を作ることができなかった。穿った見方もしれませんが、あながち否定もできない意見のようにも思われます。

まとめ

武田信玄は戦国時代における代表的な武将でしたが、残念なことに天下統一に乗り出そうとしたときに倒れています。

武田信玄の持つ英雄性と悲劇性、この2つが今でも武田信玄が愛されている理由になっているようです。

武田信玄の名言も信憑性について疑問がもたれているのは確かですが、この名言で武田信玄の人となりをイメージできるのも確かです。

真偽は別にしても、名言は含蓄があります。

 
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