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織田信長の性格をエピソードから考えてみました!

エピソードから織田信長の性格を探ってみます!

織田信長は戦国時代を終息に向かわせた人物として知られています。そして天下統一に向かわせた最大の原動力はその性格。

そこでいくつかのエピソードから織田信長の性格を探ってみることにしました。

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織田信長の性格 慎重

織田信長は若いころ「うつけもの」として知られていました。うつけものとは、今なら大ばか者といったところでしょうか。しかし、うつけは見せかけのものだったと伝えられています。

織田信長がうつけを演じたのは父である織田信秀の了解を得てのもの。見聞を広げるため父に頼んでうつけを演じたと伝えられています。

そしてこの見聞が大いに役立ったのが今川義元を討ち取った桶狭間の戦い。織田信長はうつけを演じながら領内をくまなく回っていたため、いざというときに大いに役立ったとも言われています。

先を読みとおす慎重さが織田信長の性格の一端にあったものと思われます。

また、慎重という点でいえば戦も同じ。

織田信長は生涯で数十度の戦に臨んでいますが奇襲攻撃をかけたのは桶狭間の戦いだけ。それ以外の戦いは周到な準備をして臨んだと考えられています。

織田信長の性格 強いものに弱い

織田信長自身は強いものには弱く、へりくだるという処世術を心得ていました。この代表例として挙げられるのが、武田信玄と上杉謙信に関するエピソードです。

織田信長は桶狭間の戦い後、足利義昭を奉じて上洛を果たしますが上洛はむしろ敵を増やす要因となりました。

織田家も強くなったとはいえ絶対的なものではありません。そのため当時強国とされた武田信玄や上杉謙信に贈り物をし、あえて下風に立つことで敵を増やすことを避けていました。

魔王と恐れられた織田信長ですが、若いころはむしろ強いものにへりくだる。ある意味、潔いという性格を持っていたようです。

織田信長の性格 潔い

潔いという意味では本能寺の変についてもエピソードがあります。

織田信長が襲われた時、当初、敵がだれかわかりませんでした。しかし明智光秀の謀叛とわかった時、織田信長は「是非に及ばす」と語ったと伝えられています。

明智光秀が謀叛を起こしたのであれば抜かりのあるわけはない。その瞬間、織田信長は死を悟ったとされています。このことも織田信長の潔さを示すエピソードではないでしょうか。

織田信長の性格 合理主義

織田信長は見えるものだけを信じる。合理主義の人と伝えられています。

織田信長は宗教を信じていませんでした。それは宗教が何をしてくれるのか、織田信長には理解できなかったためです。

織田信長はキリスト教を保護していました。でもキリスト教の教えに感銘を受けたわけではなく、宣教師が持つ科学的知識に興味を示したためと言われています。

また、宣教師が黒人奴隷を連れてきた時のエピソードも有名です。黒人を信じることができなかった織田信長は黒人を水で洗わせ黒く着色していないか確かめさせたと伝えられています。

織田信長の性格 好奇心が旺盛

黒人のこともそうですが織田信長は好奇心旺盛なことでも知られています。

若いころのエピソードとしては、池に大蛇がいると聞けば刀を口にくわえて池に潜ってみたり、長い槍と短い槍のどちらが有利かを知るためにそれぞれの組を作り戦わせたりと、たくさんのエピソードが知られています。

また、長じてからは鉄板で覆った船を造らせ村上水軍を破ったり、鉄砲を積極的に取り入れ長篠の戦いに勝利したりと、好奇心が旺盛なことで天下統一にまい進したとも考えられます。

織田信長の性格 イベント好き

安土城跡

安土城跡



 

 

 

 

 

 

 

 

織田信長は無類の相撲好きだったと言われています。自分が参加するだけでなく、家臣にも相撲を強要し家臣にとっては大きな迷惑だったようです。

また、踊りを好み、自らは天女の仮装を、家臣にも仮装をさせ躍らせたとも伝えられています。

そして、極めつけのエピソードはライトアップ。今でこそ全国各地でライトアップは行われていますが、織田信長は安土城にかがり火をつけ城全体をライトアップ。城下の者を楽しませたと伝えられています。

織田信長の性格 人情味がある

織田信長は冷酷無比な人物として知られています。ただ、必ずしもそうではない。そんなエピソードを2つほどご紹介します。

一つは若いころ、織田信長の傅役であった平手政秀が自害をしたとき号泣したという話です。平手政秀の自害の原因については諸説ありますが織田信長は平手政秀の菩提を弔うため政秀寺を建立しました。

もう一つは、羽柴秀吉と妻が夫婦喧嘩をしたとき、妻の寧々にあてて励ましの手紙を送ったこと。ここでは寧々の美貌を持ち上げ、羽柴秀吉の非を挙げるなど、全面的に寧々の応援に回っています。

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織田信長 厳粛である

織田信長の前ではどんな家臣でも頭を床にこすり付けるように平伏していたとされています。また、部下の話を聞くことはなく、唯我独尊タイプであったようです。

織田信長の性格 不正義を憎む

織田信長の苛烈さを示すエピソードはたくさんあります。

一番有名なのは、比叡山焼き討ち、伊勢長島一向宗門徒の殺戮でしょうか。ただし織田信長はすべての宗教を弾圧したわけではありません。

比叡山焼き討ちや一向宗門徒の殺戮はまずこれらの人々が織田信長に敵対したため。そして、僧侶や門徒が絶大な富と権力を持ち、本来的な宗教家としての立場を逸脱していたため。

織田信長の比叡山焼き討ちや一向宗門徒の殺戮は何よりも不正義を憎む織田信長の性格をよく表しているように思われます。

織田信長の性格 敵を徹底的に憎む

織田信長に敵対した武将の代表に朝倉義景や浅井長政がいます。織田信長の生涯の中で最も苦しい時の敵がこの2人です。

最終的には織田信長の勝利に終わり朝倉義景や浅井長政は亡くなりますが、織田信長の怒りは収まりません。

朝倉義景、浅井長政、長政の父である浅井久政の髑髏に金箔を貼り盃にしたと言われています。

その盃で実際に酒を酌み交わした、あるいはその盃を酒宴の席に飾っていたなど諸説ありますが、何れにしても常識からはかけ離れたエピソード。

死者であっても敵を徹底的に憎むという織田信長の性格があらわれています。

織田信長の性格 能力のない者を憎む

織田信長の天下統一が見えてきたころ、織田信長は家臣の粛清に乗り出します。その代表が林秀貞と佐久間信盛です。

林秀貞は織田信長が若かったころ、織田信長の弟である織田信行に近づき織田信長に敵対したことを持ち出されて追放されています。

でもこれは口実。織田信行の味方をしたのは林道勝だけではありません。むしろ柴田勝家の方が積極的に織田信長に敵対をしています。

しかし、柴田勝家は当時の織田家にあって軍団長。つまり、同じ旧悪があっても能力のある柴田勝家は残し、さしたる戦功のない林秀貞を追放したことになります。

また、佐久間信盛は石山本願寺攻略に10年もかかったことをとがめられて追放されています。

このように織田信長は年来の功臣であっても能力のない者は遠慮なく放逐するという苛烈な性格を持っていたようです。

織田信長の性格 短気である

今までの書いてきたことにもつながりますが織田信長は短気であったようです。これについても2つのエピソードをご紹介します。

織田信長は尾張の育ちでどちらかといえば濃い味付けの料理を好む傾向がありました。しかし、上洛後の料理人が作った料理は京風の薄味なもの。味のしない料理に激怒した織田信長はその料理人を殺そうとします。

そこで1日の猶予をもらった料理人は次の日に味の濃い料理をだして、今度は織田信長に激賞されたと言われています。

このエピソードは織田信長の短気を示すものですが、一方では織田信長の田舎者ぶりを嘲笑するエピソードとも言われています。

また、京都上洛後、街づくりの工事をしていた職人が道を歩く女性にちょっかいを出したところを見つけた織田信長。いきなりその職人に近づき、一刀でその首をはねたとも言われています。

まとめ

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織田信長を理想の上司に挙げる人も多いようですが、果たしてどこまで付き合うことができるのか。織田信長のことがわかる前に自分の命がなくなっている。そんな怖さを感じさせてくれる人物です。

織田信長のいろいろなエピソードに基づいて織田信長の性格を考えてみました。考えれば考えるほど常人離れした人、そんな風に見受けられます。


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