>
日本史 PR

織田信長の性格をエピソードを入れて12に分類してみました!

織田信長の居城となった岐阜城
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

はじめに

この記事では、織田信長の性格をエピソード入りでご紹介していきます。

織田信長は長らく続いていた戦国時代を、終息に向かわせた人物として知られています。

そして、天下統一に向かわせた最大の原動力は、性格によるところが大きいと考えられています。

そこで織田信長の性格を、いくつかのエピソードから探り、性格を12に分類して、ご紹介することにしました。

織田信長の性格を12に分類

それでは、織田信長の性格をエピソードを含めて簡単にご紹介していきます。

織田信長の性格1 慎重

織田信長のエピソードで有名なのは「うつけ」。織田信長は、若いころ「うつけもの」として知られていました。

うつけものとは、今なら大ばか者といったところでしょうか。

しかし、うつけは見せかけのものだったと伝えられています。

織田信長がうつけを演じたのは、父である織田信秀の了解を得てのもの。見聞を広げるため、父に頼んでうつけを演じたと伝えられています。

そしてこの見聞が大いに役立ったのが、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いです。

織田信長はうつけを演じながら領内をくまなく回っていたため、いざというときに大いに役立ったとも言われています。

先を読みとおす慎重さが、織田信長の性格の一端にあったものと思われます。

また、慎重という点でいえば戦も同じ。

織田信長は、生涯で数十度の戦に臨んでいます。

しかし、敵に対して奇襲攻撃をかけたのは桶狭間の戦いだけで、それ以外の戦いは周到な準備をして臨んだと考えられています。

織田信長の性格2 強いものに弱い

織田信長自身は強いものには弱く、へりくだるという処世術を心得ていました。

代表例として挙げられるのが、武田信玄と上杉謙信に関するエピソードです。

織田信長は桶狭間の戦い後、足利義昭を奉じて上洛を果たしますが、上洛はむしろ敵を増やす要因となりました。

織田家も強くなったとはいえ絶対的なものではありません。

そのため、当時強国とされた武田信玄や上杉謙信に贈り物をし、あえて下風に立つことで敵を増やすことを避けていました。

魔王と恐れられた織田信長ですが、若いころはむしろ強いものにへりくだる。

ある意味、潔いという性格を持っていたようです。

織田信長の性格3 潔い

潔いという意味では、本能寺の変についてもエピソードがあります。

織田信長が襲われた時、当初、敵がだれかわかりませんでした。

しかし、明智光秀の謀叛とわかった時、織田信長は「是非に及ばす」と語ったと伝えられています。

明智光秀が謀叛を起こしたのであれば抜かりのあるわけはない。その瞬間、織田信長は死を悟ったとされています。

このことも、織田信長の潔さを示すエピソードではないでしょうか。

織田信長の性格4 合理主義

織田信長は見えるものだけを信じる、合理主義の人と伝えられています。

織田信長は宗教を信じていませんでした。それは宗教が何をしてくれるのか、織田信長には理解ができなかったためです。

織田信長は、キリスト教を保護していました。

でも、キリスト教の教えに感銘を受けたわけではなく、宣教師が持つ科学的知識に興味を示したためと言われています。

また、宣教師が黒人奴隷を連れてきた時のエピソードも有名です。

黒人を信じることができなかった織田信長は、黒人を水で洗わせて、黒く着色していないか確かめさせたと伝えられています。

スポンサーリンク


織田信長の性格5 好奇心旺盛

黒人のこともそうですが、織田信長は好奇心旺盛なことでも知られています。

たとえば、池に大蛇がいると聞けば刀を口にくわえて池に潜ってみたり、長い槍と短い槍のどちらが有利かを知るために、それぞれの組を作り戦わせたり。

若いころの織田信長には、好奇心が旺盛なことを示す、たくさんのエピソードが知られています。

また、長じてからは鉄板で覆った船を造らせ村上水軍を破ったり、鉄砲を積極的に取り入れ長篠の戦いに勝利したりと、好奇心が旺盛なことで天下統一にまい進したとも考えられます。

織田信長の性格6 イベント好き

織田信長は、無類の相撲好きだったと言われています。

自分が参加するだけでなく、家臣にも相撲を強要するので、家臣にとっては大きな迷惑だったようです。

また、踊りを好み、自らは天女の仮装を、家臣にも仮装をさせ躍らせたとも伝えられています。

そして、極めつけのエピソードはライトアップ。

今でこそ全国各地でライトアップは行われていますが、織田信長は安土城にかがり火をつけ城全体をライトアップ。

城下の者を楽しませたと伝えられています。

織田信長の性格7 人情味がある

織田信長は、冷酷無比な人物として知られています。

ただ、必ずしもそうではない。そんなエピソードを2つほどご紹介します。

一つは若いころ、織田信長の傅役であった平手政秀が自害をしたとき、号泣したという話です。

平手政秀自害の原因については諸説ありますが、織田信長は平手政秀の菩提を弔うため政秀寺を建立しました。

もう一つは、羽柴秀吉と妻が夫婦喧嘩をしたとき、妻の寧々にあてて励ましの手紙を送ったことがあげられます。

この手紙では寧々の美貌を持ち上げ、羽柴秀吉の非を挙げるなど、全面的に寧々の応援に回っています。
 
■合わせて読みたい

織田信長の性格8 厳粛である

織田信長の前では、どんな家臣でも頭を床にこすり付けるように平伏していたとされています。

また、部下の話を聞くことはなく、唯我独尊タイプであったようです。

スポンサーリンク


織田信長の性格9 不正義を憎む

織田信長の苛烈さを示すエピソードはたくさんあります。

一番有名なのは、比叡山焼き討ち、伊勢長島一向宗門徒の殺戮でしょうか。

ただし、織田信長はすべての宗教を弾圧したわけではありません。

比叡山焼き討ちや一向宗門徒の殺戮は、これらの人々が武器を持って織田信長に敵対したため。

そして、僧侶や門徒が絶大な富と権力を持ち、本来的な宗教家としての立場を逸脱していたため。

織田信長の比叡山焼き討ちや一向宗門徒の殺戮は、何よりも不正義を憎む織田信長の性格をよく表しているように思われます。

織田信長の性格10 敵を徹底的に憎む

織田信長に敵対した武将の代表に、朝倉義景や浅井長政がいます。織田信長の生涯の中で、最も苦しい時の敵がこの2人です。

最終的に、織田信長の勝利に終わり、朝倉義景や浅井長政は亡くなりますが、織田信長の怒りは収まりません。

朝倉義景、浅井長政、長政の父である浅井久政の髑髏に金箔を貼り、盃にしたと言われています。

その盃で実際に酒を酌み交わした、あるいは、その盃を酒宴の席に飾っていたなど諸説ありますが、何れにしても常識からかけ離れたエピソード。

死者であっても敵を徹底的に憎むという、織田信長の性格があらわれています。

織田信長の性格11 能力のない者を憎む

織田信長の天下統一が見えてきたころ、織田信長は家臣の粛清に乗り出します。

その代表が林秀貞と佐久間信盛です。

林秀貞は織田信長が若かったころ、織田信長の弟である織田信行に近づき、織田信長に敵対したことを持ち出されて追放されています。

でもこれは口実。織田信行の味方をしたのは林道勝だけではありません。むしろ柴田勝家の方が、積極的に織田信長に敵対をしています。

しかし、柴田勝家は当時の織田家にあって軍団長。

つまり、同じ旧悪があっても能力のある柴田勝家は残し、さしたる戦功のない林秀貞を追放したことになります。

また、佐久間信盛は石山本願寺攻略に10年もかかったことをとがめられて追放されています。

このように織田信長は年来の功臣であっても、能力のない者は遠慮なく放逐するという苛烈な性格を持っていたようです。

織田信長の性格12 短気である

今まで書いてきたことにもつながりますが、織田信長は短気であったようです。

これについても2つのエピソードをご紹介します。

織田信長は尾張の育ちで、どちらかといえば濃い味付けの料理を好む傾向がありました。

しかし、上洛後の料理人が作った料理は京風の薄味なもの。味のしない料理に激怒した織田信長はその料理人を殺そうとします。

そこで1日の猶予をもらった料理人は次の日に味の濃い料理をだして、今度は織田信長に激賞されたと言われています。

このエピソードは織田信長の短気を示すものですが、一方では織田信長の田舎者ぶりを嘲笑するエピソードとも言われています。

また、京都上洛後、街づくりの工事をしていた職人が、道を歩く女性にちょっかいを出したところを見つけた織田信長。

いきなりその職人に近づき、一刀でその首をはねたとも言われています。

まとめ

若い頃の織田信長像
織田信長の性格を、エピソードをご紹介しながら、性格を12の要素に分類し、ご紹介してきました。

ところで、織田信長を理想の上司に挙げる人も多いようです。

でも、上司の織田信長に、どこまで付き合うことができるのだろうか。

織田信長のことがわかる前に、自分の命がなくなっている。織田信長は、そんな怖さを感じさせる人物です。

織田信長は、考えれば考えるほど常人離れした人。

そのようにも見受けられますが、だからこそ戦国時代を終息に向かわせることができたのかもしれないですね。

 
■合わせて読みたい

こちらの記事もお読みください