季節や歴史の話題を中心に気になることをご紹介しています。ぜひ、読んでくださいね。

織田信長が明智光秀に本能寺の変で倒された真実とは?

はじめに

日本人にとって歴史上なじみの深い人物はたくさんいますが、とりわけ有名なのが織田信長。約100年あまり続いた戦国時代を、革新的な手法で終結に導いた人物としてあまりにも有名です。

そのため織田信長が明智光秀の謀叛に会い、波乱万丈の人生を閉じた本能寺の変も多くの人に知られています。ところが、どうして明智光秀が本能寺の変で織田信長を倒したのか、その真実は分かっていません。

もちろん、本能寺の変が起こった理由はいくつも語られています。ただ、その中のどれが真実なのか。あるいはその理由の中に真実はまだないのか。誰もわかってはいません。

そこで、今回は真実の可能性があると考えられているいくつかの説をご紹介します。

スポンサードリンク


本能寺の変の真実はどうしてわからないの?

本能寺

本能寺



 

 

 

 

 

 

 

 

織田信長が本能寺で倒された理由、その真実はわかっていません。では、どうしてわからなかったのでしょうか。

まず第一に倒された当事者である織田信長はもとより、織田信長の近習として仕えていた家臣もほとんど本能寺の変で亡くなってしまったことが挙げられます。

また、本能寺の近くの二条城にいた織田信長の嫡男織田信忠もこのときに倒されています。

謀叛にあった側の人物がほとんど倒されたため、敗者の側から書き記されたものが残っていません。

では、勝者の明智光秀はどうだったのでしょうか。

明智光秀が本能寺の変を起こしたのが天正10年6月2日。そのまま明智光秀の天下が続いていれば明智光秀から真実が伝えられた可能性はおおいにあります。

でも明智光秀は6月13日の山崎の戦で羽柴秀吉に敗れ命を落としています。あまりにも期間が短く勝者の側からも真実が語られることはありませんでした。

本能寺の変について書かれた古文書の類いはいくつも残されています。ただ、噂話の域を出ないもの、書いた人の都合のよい形で記載され真実が書かれていないもの。

このあたりは歴史学者の判断に委ねる部分ですが、本能寺の変について第1級の史料というのは今でも発見されていないようです。

そうした理由から織田信長が本能寺で倒された真実は謎とされています。では次からは本能寺の変の真実として語られている諸説について触れていきます。

本能寺の変の真実1 怨恨説

明智光秀は織田信長から数多くの仕打ちを受け深く恨んでいた。これが怨恨説です。

怨恨説の理由としては

○ 明智光秀は自分の母を敵に人質にだしていたが織田信長の虚言で母が敵に殺された。

○ 重臣が居並ぶ席で明智光秀の発言が織田信長の怒りを買い、満座の中で蹴り倒された。

○ 織田信長に徳川家康の饗応を命じられたが、その対応が織田信長の怒りを買い任を解かれた。

○ 織田信長に中国地方への出陣を命じられたが、それは羽柴秀吉の下に入ることを意味していた。

織田信長は苛烈な性格が知られていたために、織田信長が本能寺で倒された真実としてこの怨恨説がとても強かった時期があります。

ただ、現在では上記の怨恨説の理由となった事件の真実性そのものが疑われることも多く、怨恨説はすこし下火になっているようです。

本能寺の変の真実2 天下取り野望説

明智光秀像

明智光秀像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

本能寺に居留していた織田信長の手勢は約100人。一方、中国地方へ出陣するはずだった明智光秀の軍勢は約13000人。

織田信長を倒せば天下が自分に転がり込んでくることは分かっていましたし、現実に織田信長の100倍以上の戦力を有している。明智光秀も一介の浪人から上り詰めてきただけに、元より大きな野望をもっていたはず。

それが明智光秀の天下取り野望説の根拠となっています。しかし、現在はこちらについても疑問が呈されています。

明智光秀は緻密な頭脳が評価されていました。天下取りのために織田信長を倒したのであれば周到な準備をしていたはず。しかし本能寺の変後の明智光秀の行動をみると十分な準備をしたうえでの行動とは到底思えない。

そんなところから、天下取り野望説は真実から少しばかり遠いと思われています。

スポンサードリンク


本能寺の変の真実3 黒幕存在説

本能寺の変は明智光秀の単独ではなく、誰かと共同で行ったもの、あるいは誰かに唆されたもの、そんな説が有力になっています。

ただし、その黒幕も一人ではありません。そこが本能寺の変の真実をさらに難しいものにしています。

黒幕の可能性1 羽柴秀吉(豊臣秀吉)

推理ドラマによくあることですが、本能寺の変が起こって一番得をしたのは誰かということです。

羽柴秀吉も明智光秀と同じく織田信長の有力家臣の一人にすぎません。その2人が語らって、明智光秀が実行犯となったのが羽柴秀吉黒幕説です。

現実には本能寺の変を知った羽柴秀吉は当時戦っていた毛利氏と即座に講和。いわゆる「中国大返し」を行って本能寺の変の約10日後には明智光秀を討ち果たします。

しかし、このことも羽柴秀吉黒幕説に拍車をかけています。羽柴秀吉はすでに数年にわたり毛利氏と戦を続けています。

そんなに急に講和に持ち込めるものだろうか。また、中国大返しも常識では考えられないこと。

羽柴秀吉が本能寺の変を事前に知っていてすでに周到な準備をしていたのではないか。そんなことを語る人もいようです。

明智光秀と羽柴秀吉は共闘していたものの羽柴秀吉が明智光秀を裏切り、結果的には羽柴秀吉が天下をとった。
羽柴秀吉黒幕説はとても分かりやすいストーリーです。

黒幕の可能性2 徳川家康

織田信長の同盟者、それが徳川家康です。織田信長は自国より西に進出、そのため手薄となる東側の抑えを徳川家康に任せていた。それがこの2人の関係です。

ただ、本能寺の変が起きる数か月前に最大の敵国であった武田氏が滅亡しました。東に残る有力大名は北条氏ですが武田氏よりは弱い、織田信長はそう判断していたと伝えられています。

そうなると、徳川家康の存在価値は大幅に低下します。

また、この頃には織田信長は自らの家臣の粛清を行っています。代表的な例としては、佐久間信盛や林道勝の追放です。織田信長は自分の家臣でも使えないとわかれば即座に追放。

徳川家康は織田信長の家臣ではありません。追放ではなく命が危ない。そう考えた徳川家康は明智光秀を唆して謀叛を起こさせたというものです。

この徳川家康黒幕説には傍証があります。

たとえば、明智光秀の家臣に斎藤利光がいます。斎藤利光も明智光秀と共に討死しますが、その娘は後に徳川家に入り徳川三代将軍である家光の乳母となり春日局と名乗り、絶大な権力を握ることになります。

また、明智光秀は山崎の戦で死亡したというのが定説ですが、実は生き残り「天海」と名を改め徳川家康のブレーンとして活躍したという話も伝えられています。

このように明智家と徳川家は深い縁で結ばれていた。このことも徳川家康黒幕説の根拠になっているようです。

黒幕の可能性3 斎藤利光

当時、四国は長宗我部氏が支配をしていました。本能寺の変が起こるしばらく前まで、織田信長はその長曾我部氏と親交を深めるため斎藤利光と長曾我部氏を縁戚関係で結ばせていました。

しかし、織田信長の力が絶大になるとともに、長曾我部氏の存在が邪魔にになり織田信長は長宗我部氏の征討に乗り出します。

本能寺の変が起きた時期はまさに征討に乗り出す直前で、織田家の重臣の丹羽長秀と織田信長の三男信孝が四国に渡ろうとしていました。

この状況に危機感を抱いた斎藤利光が明智光秀を説得して、本能寺の変が起きたとも言われています。

黒幕の可能性4 近衛前久

最近、本能寺の変の真実については黒幕説がとりわけ有力なようです。

そして、そのなかで最も注目をされているのが「近衛前久」黒幕説です。

近衛前久とはどのような人物なのでしょうか。

近衛前久(1536年~1612年)は今でこそ、それほどの知名度はありませんが、当時は著名な人物でした。

では、近衛前久は当時の世の中においてどのような立場であったのでしょうか。

近衛家は五摂家の一つに数えられ朝廷の中でも重きをおいています。

実際に近衛前久も近衛家の当主として関白や太政大臣など朝廷の中での重職を歴任し、織田信長とも近い関係にあったとされています。。

ところが、織田信長と近衛前久の関係はいつしか暗転をします。

若いころの織田信長は京都上洛に際し足利家を利用しました。しかし、最終的に織田信長は足利幕府を滅亡させました。因襲には一切とらわれない織田信長が次に目をつけたのが朝廷です。

古来、権力者は朝廷に取り入り縁戚関係を結び権力を誇示してきました。言い換えれば、織田信長と朝廷の仲立ちをしていたのが近衛前久です。

しかし、織田信長はさらなる権力をつかむために、自らが朝廷に入り最高権力者になる。あるいは朝廷そのものを無視し、自らが唯一無二の権力者になろうと画策したとも伝えられています。

そうした状況に危機感を抱いた近衛前久が明智光秀を唆して起こしたのが本能寺の変とも伝えられています。

どれが真実なのかはわかりませんが、近年では黒幕説が本能寺の変の真実に近い。とりわけ、最後の近衛先久黒幕説が本能寺の変の真実に最も近いのではないか。そのように考えている人も多いようです。

最後に

織田信長像

織田信長像



 

 

 

 

 

 

 

 

歴史上の超有名人である織田信長。有名であるだけにその最期である本能寺の変もとりわけ知られた事件ですが、実はその真実は今でもわかっていない。

今回、ご紹介した中に真実があるのかもしれないし、真実は一つではなく複数あったのかもしれない。さらには、真実はまったく別にある。当然、そうした可能性もあります。

おそらく、織田信長が本能寺の変で倒された理由、その真実は永久にわからないだろうと思われます。でも、だからこそ多くの歴史ファンの興味をひき続けている、そんな気もしています。

真実は分からない方が楽しいのかもしれないですね。


スポンサードリンク

関連記事