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明智光秀が本能寺の変を起こした理由を3つにまとめて解説

織田信長が最期を迎えた本能寺
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明智光秀が本能寺の変を起こした3つの理由

この記事では、どうして明智光秀が本能寺の変を起こしたのか。その理由を3つあげ、それぞれについて簡単に解説を加えていこうと思います。

日本人にとって歴史上なじみの深い人物はたくさんいます。

その中でも、とりわけ有名なのが織田信長。

織田信長は約100年あまり続いた戦国時代を、革新的な手法で終結に導いた人物としてあまりにも有名です。

そのため、織田信長が明智光秀の謀叛により、波乱万丈の人生を閉じた本能寺の変も多くの人に知られています。

ところが、どうして明智光秀が本能寺の変で織田信長を倒したのか、その理由は分かっていません。

もちろん、本能寺の変が起こった理由はいくつも語られています。

ただ、その理由の中に真実はあるのか。あるいは、その理由の中には真実はないのか。誰にもわかってはいません。

そこで、本能寺の変について真実の可能性があると考えられている3つの理由と、それぞれの根拠について簡単にご紹介します。

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本能寺の変の理由がはっきりしない訳とは

織田信長が最期を迎えた本能寺本能寺

明智光秀が本能寺の変を起こしたのかはなぜなのか。諸説語られているものの、はっきりとしていません。

では、どうして明智光秀が本能寺の変を起こした理由がはっきりとしていないのでしょうか。

まず考えられるのは、本能寺の変では織田信長だけでなく、織田信長の近習として仕えていた家臣も、ほとんどが亡くなってしまったことがあげられます。

また、本能寺近くの二条城にいた織田信長の嫡男織田信忠も、このときに倒されています。

織田信長側の人物がほとんど倒されたため、敗者の側から書き記されたものが残っていません。

では、勝者の明智光秀はどうだったのでしょうか。

明智光秀が本能寺の変を起こしたのが天正10年6月2日。そのまま明智光秀の天下が続いていれば、明智光秀から真実が伝えられた可能性があります。

でも、明智光秀は6月13日の山崎の戦いで、羽柴秀吉に敗れ命を落としています。

あまりにも期間が短かかったため、勝者の側からも真実が語られることはありませんでした。

本能寺の変について書かれた史料はいくつも残されています。

ただ、噂話の域を出ないもの、書いた人の都合のよい形で記載されていて、真実が書かれているとは思えないもの。

このあたりは歴史学者の判断に委ねる部分ですが、本能寺の変について第一級の史料というのは今でも発見されていないようです。

そのようなことから、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、今でもはっきりとしていません。

もっとも、明智光秀が本能寺の変を起こした理由について、いくつか語られているのも事実です。

その理由が正しいかどうかは別ですが、この記事では一般に知られている理由を3つ取り上げ、それぞれを簡単にご紹介していきます。

明智光秀が本能寺の変を起こした理由1 怨恨説

明智光秀は、織田信長から数多くの仕打ちを受け深く恨んでいた。

織田信長と明智光秀の関係を考えるとき、まず語られるのが明智光秀の織田信長に対する怨恨で、これが本能寺の変を起こした理由と考えられています。

 

怨恨説の理由としては

○ 明智光秀は自分の母を敵に人質にだしていたが、織田信長の虚言で母が敵に殺された。

○ 重臣が居並ぶ席で明智光秀の発言が織田信長の怒りをかい、満座の中で蹴り倒された。

○ 織田信長に徳川家康の饗応を命じられたが、その対応が織田信長の怒りをかって任を解かれた。

○ 織田信長に中国地方への出陣を命じられたが、それは羽柴秀吉の下に入ることを意味していた。

 

織田信長は苛烈な性格が知られていたため、明智光秀が本能寺の変に至った理由として怨恨説がとても強かった時期があります。

ただ、現在では上記の怨恨説の理由となった事件の真実性そのものが疑われることも多く、怨恨説はすこし下火になっているようです。

 
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明智光秀が本能寺の変を起こした理由2 野望説

織田信長を本能寺で倒した明智光秀像明智光秀像

本能寺に居留していた織田信長の手勢は約100人。一方、中国地方へ出陣するはずだった明智光秀の軍勢は約13,000人。

織田信長と明智光秀の関係は主従です。

しかし、本能寺の変が起こった時の兵力を考えると、明智光秀の方が圧倒的な優位性を持っていました。

明智光秀にすれば織田信長を倒せば天下が自分に転がり込んでくることは分かっていましたし、現実に織田信長の100倍以上の戦力を有していました。

明智光秀も一介の浪人から上り詰めてきただけに、元より大きな野望をもっていたはず。

それが明智光秀の天下取り野望説の根拠となっています。

しかし、現在はこちらについても疑問が呈されています。

明智光秀は緻密な頭脳が評価されていました。天下取りのために織田信長を倒したのであれば周到な準備をしていたはずです。

しかし本能寺の変後の明智光秀の行動をみると、十分な準備をしたうえでの行動とは到底思えない。

そんなところから、明智光秀の天下取り野望説は本能寺の変を起こした理由からは少しばかり遠いと考えられています。

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明智光秀が本能寺の変を起こした理由3 黒幕説

本能寺の変は明智光秀の単独ではなく、誰かと共同で行ったもの。あるいは、誰かに唆された(そそのかされた)もの。

そんな説が有力になっています。

ただし、明智光秀も当時の有力武将で、各方面とさまざまな関係を持っていました。そのため、黒幕の候補も一人ではありません。

そこが本能寺の変の真実をさらに難しいものにしています。

この記事では、黒幕と噂されている4人の人物をご紹介します。

黒幕の可能性1 羽柴秀吉(豊臣秀吉)

推理ドラマによくあることですが、本能寺の変が起こって一番得をしたのは誰かということです。

羽柴秀吉も明智光秀と同じく織田信長の家臣の一人にすぎません。その2人が語らって、明智光秀が実行犯となったのが羽柴秀吉黒幕説です。

現実には本能寺の変を知った羽柴秀吉は、当時戦っていた毛利氏と即座に講和。

いわゆる「中国大返し」を行って、本能寺の変の約10日後には明智光秀を討ち果たします。

しかし、この現実離れした行動も羽柴秀吉黒幕説に拍車をかけています。

羽柴秀吉は、すでに数年にわたり毛利氏と戦を続けています。

当時の織田氏と毛利氏の関係を考えると、そんなに急に講和に持ち込めるものだろうか。

また、中国大返しも通常では考えられないようなスピードで行われています。

羽柴秀吉が本能寺の変を事前に知っていて、すでに周到な準備をしていたのではないか。

そんなことを語る人もいるようです。

明智光秀と羽柴秀吉は共闘の関係にあったものの、羽柴秀吉が明智光秀を裏切り、結果的に羽柴秀吉が天下をとった。

羽柴秀吉黒幕説は、とても分かりやすいストーリーです。

黒幕の可能性2 徳川家康

織田信長の同盟者、それが徳川家康です。

織田信長は自国より西に進出、そのため手薄となる東側の抑えを徳川家康に任せていた。それが2人の基本的な関係です。

ただ、本能寺の変が起きる数か月前に最大の敵国であった武田氏が滅亡しました。

東に残る有力大名は北条氏ですが武田氏よりは弱い。織田信長はそう判断していたと伝えられています。

そうなると、徳川家康の存在価値は大幅に低下します。また、この頃には織田信長は自らの家臣の粛清を行っています。

代表的な例としては、佐久間信盛や林道勝の追放です。

織田信長は自分の家臣でも使えないとわかれば即座に追放。徳川家康は織田信長の家臣ではありません。追放ではなく命が危ない。

そう考えた徳川家康は、明智光秀を唆して謀叛を起こさせたというものです。

この徳川家康黒幕説には傍証があります。

たとえば、明智光秀の家臣に斎藤利光がいます。

斎藤利光も明智光秀と共に討死しますが、斎藤利光の娘は後に徳川家に入り、徳川三代将軍である家光の乳母となり春日局と名乗り、絶大な権力を握ることになります。

また、明智光秀は山崎の戦で死亡したというのが定説ですが、実は生き残り「天海」と名を改め、徳川家康のブレーンとして活躍したという話も伝えられています。

このように明智家と徳川家は深い関係で結ばれていた。このことも徳川家康黒幕説の根拠になっているようです。

 
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黒幕の可能性3 斎藤利光

当時、四国は長宗我部氏が支配をしていました。

本能寺の変が起きるしばらく前まで、織田信長は長宗我部氏と親交を深めるため、斎藤利光と長宗我部氏を縁戚関係で結ばせていました。

しかし、織田信長の力が絶大になるとともに、長宗我部氏の存在が邪魔になり、織田信長は長宗我部氏の征討に乗り出します。

本能寺の変が起きた時期はまさに征討に乗り出す直前で、織田家の重臣の丹羽長秀と織田信長の三男信孝が四国に渡ろうとしていました。

この状況に危機感を抱いた斎藤利光が明智光秀を説得して、本能寺の変が起きたとも言われています。
 
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黒幕の可能性4 近衛前久

最近、本能寺の変の理由については黒幕説がとりわけ有力なようです。

そして、そのなかで最も注目をされているのが近衛前久(このえさきひさ)です。

近衛前久(1536年~1612年)は、現在はそれほどの知名度はありませんが、当時は著名な人物でした。

では、近衛前久はどのような立場であったのでしょうか。

近衛家は五摂家の一つに数えられ、朝廷の中でも重きをおいています。

実際に近衛前久も近衛家の当主として、関白や太政大臣など朝廷で重職を歴任し、織田信長とも近い関係にあったとされています。

ところが、織田信長と近衛前久の関係はいつしか暗転します。

若いころの織田信長は、京都上洛に際し足利家を利用しました。しかし、最終的に織田信長は足利幕府を滅亡させました。

因襲に一切とらわれない織田信長が次に目をつけたのが朝廷です。

古来、権力者は朝廷に取り入り縁戚関係を結び権力を誇示してきました。

織田信長と朝廷の仲立ちをしていたのが近衛前久です。

しかし、織田信長はさらなる権力をつかむために、自らが朝廷に入り最高権力者になる。

あるいは朝廷そのものを無視し、自らが唯一無二の権力者になろうと画策したとも伝えられています。

そうした状況に危機感を抱いた近衛前久が、明智光秀を唆して起こしたのが本能寺の変とも伝えられています。

どれが本能寺の変の理由なのかはわかりませんが、近年では黒幕説が本能寺の変の真実に近い。

とりわけ、最後の近衛先久黒幕説が本能寺の変の真実に最も近いのではないか。そのように考えている人も多いようです。

おわりに

明智光秀に本能寺で倒された織田信長像織田信長像

歴史上の超有名人である織田信長。

有名であるだけに、織田信長が最期を迎えた本能寺の変もとりわけ知られた事件ですが、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は、今でもわかっていません。

今回、ご紹介した理由の中に真実があるのかもしれないし、理由は一つではなく複数あったのかもしれない。

さらには、他にもまったく別の理由がある。そのような可能性もあります。

おそらく、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は永久にわからないだろうと思われます。

でも、だからこそ多くの歴史ファンの興味をひき続けている、そんな気もしています。

真実は分からない方が、むしろ楽しいのかもしれないですね。

 
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