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天正伊賀の乱とは忍者(忍び)が活躍したことで知られる戦い

はじめに

天正伊賀の乱と忍者(忍び)について書いていきます。

天正伊賀の乱は、忍者(忍び)が活躍した戦いとしても知られていますが、忍者(忍び)とはどのような存在だったのか。

そして、2度にわたる天正伊賀の乱とはどのような戦いだったのかを、簡単にご案内をしていきたいと思います。

忍者(忍び)とは

忍者(忍び)とは、常日頃から諜報活動や破壊活動、時には暗殺などにも携わっていた者たちです。

通常、忍者(忍び)は大名などその土地の権力者に仕えることが多く、前述のようにスパイ活動もすれば、直接戦いにも参加する傭兵集団のような役割も担っていました。

忍者(忍び)は、その特異性から歴史の表舞台にたつことはほとんどありません。

しかし、忍者(忍び)は古くは飛鳥時代から存在していたと伝えられており、その活躍がもっとも注目されていたのは戦国時代と言われています。

忍者(忍び)は、タイプとしては大きく2つに分かれます。

それは、主に個人で活動をする忍者(忍び)と、集団で活動する忍者(忍び)です。

後者の代表としてあげられるのが、伊賀衆や甲賀衆と言われる忍者(忍び)です。

忍者(忍び)は、その仕事柄からして目立つ存在ではありませんでした。

しかし、集団で活動することが多い伊賀衆や甲賀衆は、今でも知名度が高く日本人だけでなく外国人からも注目をされているようです。

その忍者(忍び)が目立った活動をした一つの例として挙げられるのが、天正伊賀の乱です。

それでは、次に天正伊賀の乱とはどのような戦いだったのかについて、簡単にお伝えをしていきます。

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天正伊賀の乱とは


 

 

 

 

 

 

 

 

 

天正伊賀の乱は、天正時代に起こった伊賀国での戦いです。

天正伊賀の乱は、当時破竹の勢いだった織田家と伊賀国の領主たちの戦いです。

また、天正伊賀の乱は一度ではなく2回起こっています。

最初は、天正6年(1578年)。

2回目は、天正9年(1581年)。

天正伊賀の乱は2回にわたって戦いが繰り広げられていますが、どちらも元号でいえば「天正」年間。

そのため、この戦いをまとめて天正伊賀の乱と称しています。

なお、結論を先に書いてしまうと、第1次天正伊賀の乱は伊賀国の領主たちの勝利。

第2次天正伊賀の乱は、織田家の勝利となっています。

第1次天正伊賀の乱の背景と結果とは

第1次天正伊賀の乱が行われたのは天正6年(1578年)です。

当時は、織田信長が天下布武にまい進していた時期で、織田家は武田家や毛利家など戦国時代を代表するような大名たちとの抗争を繰り広げていました。

織田信長の天正6年(1578年)時点での居城は、美濃国の岐阜城(現在の岐阜県岐阜市)。

一方、伊賀国は現在の三重県。

織田信長が当時戦っていた武田氏は甲斐国、毛利氏は中国地方一帯。

武田氏や毛利に比べたら、織田信長にとって伊賀国はとても近い距離にあります。

しかし、織田信長は伊賀国に積極的に侵攻することはありませんでした。

その理由はいくつも考えられますが、織田家にとっての重要課題は有力な戦国大名に勝利をして版図を広げること。

まずは、武田氏や毛利氏との戦いが最優先事項。

確かに伊賀国は織田信長にとっては目障りな存在だったでしょうが、伊賀国は小国。

しかも、多くの小さな領主が存在して、それぞれの勢力はそれほどではない。

織田信長にとって伊賀国はそれほど重要な存在ではなかったと思われます。

また、小さな領主が多数存在しているということは、侵攻が厄介だとも考えられます。

たとえば調略するにしても、より多数を相手にしなければならず、時間がかかる上に面倒。

仮に伊賀国を支配下に治めたとしても、そこから得られる果実は必ずしも大きくはない。

このようなことから伊賀国は織田家にとって必要な土地ではあっても、急ぐ必要はない。

それが、織田家の領地に隣接していながらも、伊賀国が独立を保てていた最大の要因だったように思われます。

しかし、時の経過とともに、そうした状況が少しずつ変化をしてきます。

天正4年(1576年)、伊賀国の隣国である伊勢国を織田信長の次男である織田信雄が支配下に置きます。

そして、織田信雄が次にとった策が伊賀国丸山城(現在の三重県伊賀市)の修築です。

丸山城の修築を知った伊賀国の領主たちは、伊勢国の次は伊賀国が侵略されると考え、1578年(天正6年)10月に丸山城を急襲。

丸山城にいたのは織田信雄の重臣であった滝川雄利ですが、滝川雄利は丸山城を捨て伊勢国に逃げ延びます。

この時の城攻めに深く関わったのが伊賀衆と言われる忍者(忍び)で、忍者(忍び)の活躍により丸山城は半日程度で伊賀国の領主たちの手に渡ったと考えられています。

伊賀国の態度に、当然のことながら織田信雄は激怒します。

そして、天正7年(1579年)9月には改めて8千人の兵を率いて伊賀国に侵攻。これが、第1次天正伊賀の乱になります。

しかし、地の利のあった伊賀国の領主たちは徹底抗戦。

このときも、忍者(忍び)の活躍により、僅か数日で戦いは終結。

織田信雄は伊勢国に敗走をしています。

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第2次天正伊賀の乱の背景と結果とは

第1次天正伊賀の乱に際して、伊賀国に侵攻をしたのは織田信長の次男である織田信雄です。

織田信雄については暗愚という評価が一般的です。

第1次天正伊賀の乱にしても父である織田信長に了解を得ず引き起こした、あるいは織田信長が許可しなかったのにも関わらず無謀に攻め込んだと言われています。

しかし、暗愚とはいえ織田信長の息子。

この状況を放置しておいては、織田家の名誉にも関わります。

そこで起こったのが、天正9年(1581年)9月の第2次天正伊賀の乱です。

第2次天正伊賀の乱の総大将は、織田信雄。

ただし、第1次天正伊賀の乱の時とは異なり、第2次天正伊賀の乱では織田信雄だけではなく織田家の有力武将も参陣をしています。

その代表的な武将が、滝川一益と丹羽長秀。

後世、織田四天王という言葉が生まれています。

織田四天王とは織田信長在世時の織田家の4人の有力武将のことで、一般的に織田四天王は柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益とされています。

織田四天王と言われたうち2人の武将が、総大将の織田信雄につけられている。また、総兵力は5万人。

織田信雄というよりも織田信長の意気込みが伝わってくるような陣容、そして兵力です。

伊賀国は小さな領主が多かった国です。言い換えれば、伊賀国は小さな城が数多く存在する土地でした。

織田信雄の大軍勢に驚いた伊賀国の領主たちは籠城を中心としながら、織田信雄との戦いを繰り広げていきます。

しかし、多勢に無勢。

伊賀国の領主たちは、織田信雄に降伏をして第2次天正伊賀の乱は終結をします。

なお、第2次天正伊賀の乱では、戦争に直接携わった武将だけでなく、民衆も含めると約3万人が殺されてしまったと言われています。

さいごに


 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、忍者(忍び)とはどのような存在だったのか。

また、天正伊賀の乱とはどのような戦いだったのかを簡単にご紹介をしてきました。

天正伊賀の乱は、伊賀国の領主たちと、織田家との戦いです。

そして、この戦いで大きな活躍を見せたのが、忍者(忍び)と言われています。

忍者(忍び)は、本来は陰に徹した仕事。

表に出てくることはほとんどないはずですが、天正伊賀の乱は忍者(忍び)が歴史の表舞台に出てきた数少ない事例の一つです。

戦国の数多くの戦いの中でも、特異性の際立った戦いが天正伊賀の乱ではないでしょうか。

ところで、第2次天正伊賀の乱は天正9年(1581年)9月に始まり、そして終わっています。

第2次天正伊賀の乱の翌年は、天正10年(1582年)。

天正10年(1582年)6月には本能寺の変が起こり、織田信長は亡くなります。

第2次天正伊賀の乱のわずか数か月後には、伊賀国にとって侵略者である織田信長が命を落としています。

歴史に「if」はありませんが、第2次天正伊賀の乱の前に本能寺の変が起こっていたならば、伊賀国はどうなっていたのだろうか。

そして、伊賀の乱に多数参加をしていた忍者(忍び)はどうなっていたのであろうか。

思わず想像を巡らしてしまいます。


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