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大山格之助(大山綱良)と西郷隆盛・大久保利通の関係とは

はじめに

この記事では、大山格之助(大山綱良)とはどのような人物だったのか。

そして、大山格之助(大山綱良)と西郷隆盛や大久保利通とはどのような関係だったのかについて、簡単にご案内をしていきます。

大山格之助(大山綱良)・西郷隆盛・大久保利通の共通点

大山格之助(大山綱良)は、1825年に生まれ、1877年に亡くなります。

大山格之助(大山綱良)が生まれたのは薩摩藩(現在の鹿児島県)。

同じ薩摩藩の出身でとりわけ有名な人物として、西郷隆盛と大久保利通がいます。

西郷隆盛は、1828年に生まれ、1877年に亡くなっています。

大久保利通は、1830年に生まれ、1878年に亡くなっています。

大山格之助(大山綱良)・西郷隆盛・大久保利通は同じ薩摩藩の出身。

そして大山格之助(大山綱良)は、西郷隆盛や大久保利通よりも若干の年長ですが、生きた時代もほとんど同じであることが分かります。

なお、大山格之助(大山綱良)は明治時代になるまでは大山格之助(おおやまかくのすけ)。

明治以降は、大山綱良(おおやまつなよし)を名乗っています。

それでは、大山格之助(大山綱良)の生涯を時系列でご案内するとともに、大山格之助(大山綱良)と西郷隆盛・大久保利通の関係についてふれていきたいと思います。

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大山格之助の生涯(明治維新まで)

城山から見た鹿児島市と桜島



 

 

 

 

 

 

 

 

大山格之助は、1825年に樺山家に生まれます。

そして、24歳のときに大山家に婿養子に入り大山格之助となります。

大山格之助は、1860年頃にできた薩摩藩の藩内組織である「精忠組(せいちゅうぐみ)」(誠忠組と記載することもあります)に加盟します。

精忠組については、思想信条がはっきりとしない部分もありますが、当時は大老井伊直弼による安政の大獄が行われた時代。

また、精忠組は井伊直弼暗殺も企図されたと言われていますので、倒幕とは言わないまでも時の江戸幕府の施政に対して批判的な意見を持つ集団であったものと思われます。

この精忠組に加盟していたのが、西郷隆盛や大久保利通です。

その後、精忠組に目をつけた人物がいます。

その人物は、島津久光。

薩摩藩は藩主である島津斉彬が1858年に亡くなった後、島津斉彬の弟である島津久光の子の島津忠義が後継となります。

島津久光は藩主ではありませんが、藩主の父で実質的には薩摩藩を治めていたと言われています。

薩摩藩で絶大な権力を握っていた島津久光は、薩摩藩内で一大勢力となっていた精忠組の取り込みを図り、大久保利通などはこのときに島津久光の側近として抜擢されるようになります。

一方、島津久光の取り込みを避け、あくまでも精忠組の思想信条を履行しようとした人物に有馬新七がいます。

有馬新七は京都に上り、尊皇攘夷などを実行に移そうと画策をします。

その動きを知った島津久光は大山格之助などを京都に派遣し、有馬新七の画策を思いとどまるよう説得をします。

しかし、この交渉は失敗に終り、1862年には有名な寺田屋事件が起こってしまいます。

1862年の寺田屋事件は、島津久光の命を受けた大山格之助などと、精忠組の中でも過激思想を持っていた有馬新七などが武力を持って対立した薩摩藩の内部抗争です。

結果は、大山格之助などの勝利。

有馬新七などは寺田屋事件で命を落としています。

寺田屋事件は薩摩藩の内部抗争ともいえますが、この事件は精忠組をも2つに分断させています。

大久保利通や大山格之助は島津久光に取り込まれ、有馬新七などはあくまでも精忠組の考えを具体的に実行に移そうとします。

寺田屋事件は結果的に精忠組を分断し、その後、精忠組はなくなっていきます。

西郷隆盛はこのときどうしていたのでしょうか。

西郷隆盛も島津久光の命を受け、有馬新七などの説得に乗り出すはずでした。

しかし、島津久光と西郷隆盛は元々が犬猿の仲。

島津久光の意にことごとく背いた西郷隆盛は、島津久光の逆鱗に触れ、寺田屋事件の頃は捕縛されて京都より鹿児島に護送をされています。

精忠組の中でも、大久保利通や大山格之助は島津久光に従います。

一方、西郷隆盛は島津久光の命を受けながらも、結果的には反目。

幕末を生き抜き明治維新を迎えた大山格之助、西郷隆盛、大久保利通ですが、それぞれの立場はこの当時から異なっていたようです。

その後、幕末を迎え、それぞれに活躍をします。

西郷隆盛、大久保利通とともに大山格之助も官軍の重職を務めています。

もっとも、大山格之助の戦歴は必ずしも輝かしいものではなく、明治維新三傑と讃えられている西郷隆盛や大久保利通の活躍ぶりとは大きな差が生まれてしまったと考えられています。

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大山綱良の生涯(西南戦争まで)

西郷隆盛が籠った城山の洞窟



 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治になり大山格之助は大山綱良と名を改めます。

明治政府になり、とりわけ大きな事業が1871年の廃藩置県。

廃藩置県により、各県にはそれまでの藩主に代わり、明治政府から任命された県令がおかれます。

このときの原則は、各県の県令には、その地以外の出身地の者を充てるということでした。

たとえば、県令に地元出身の者を充てると、結果的にその者は旧藩主の言いなりとなってしまうこともある。

また、明治政府樹立に活躍した薩長土肥などの武士たちを人事で報いる必要もあった。

こうした諸事情で、県令はその地以外の出身地の者を充てるという原則がありましたが、大山綱良は薩摩藩出身であるにもかかわらず鹿児島県の県令になっています。

この理由は定かではありませんが、もっとも有力なのは島津久光の意向。

廃藩置県を行っても、島津久光の意向は絶大なものがあり、明治政府は大山綱良の県令を認めざるを得なかった。

また、明治政府には薩摩藩出身者が多く、鹿児島県が治めるのに難しい国であることを熟知していました。

他藩出身者では鹿児島県を治めることは不可能。

しかし、薩摩藩出身者であれば、鹿児島県を治めることができる。

明治政府にはこうした考えがあったとも言われています。

もっとも、大山綱良は島津久光に見いだされた人物。

明治政府に対しては必ずしも従順ではなく、特に島津久光とは折り合いの悪かった西郷隆盛については、島津久光の意向を介して大山綱良はさんざんに批判をしたと言われています。

恐らくですが、この当時の大山綱良と西郷隆盛の関係は良くはなかった。

また、大山綱良と明治政府の中枢で仕事をしていた大久保利通との関係も必ずしも良好とはいえなかった。

このように推測できますが、いかがでしょうか。

その後、それぞれの立場と関係は大きく変わっていきます。

その契機が1873年の征韓論。

明治政府の中で、征韓論を巡って西郷隆盛と大久保利通は大きく対立をします。

結果的に大久保利通が勝利し、西郷隆盛は明治政府を離れ鹿児島に帰郷。新たに私学校を設立します。

私学校は旧薩摩藩の武士に対して陸軍士官を養成する学校として知られていますが、大山綱良は私学校設立に援助をしています。

また、この頃から大山綱良は鹿児島県で集めた税金を明治政府に渡さないようになります。

税金を納めず、さらに鹿児島県内でできた私学校に援助をしていく。

明治政府は中央集権を目指していましたが、当時の鹿児島県はまさに独立国家。

明治政府が鹿児島県そして大山綱良に対して大きな怒りを持つのは当然のことです。

西郷隆盛が鹿児島県に帰ったころから、大山綱良と西郷隆盛と大久保利通の関係はより明確になっていきます。

同じ鹿児島にいる大山綱良と西郷隆盛の関係は大きく改善します。

対して、鹿児島にいる大山綱良と西郷隆盛と、明治政府に留まり大きな権力を握る大久保利通は大きく反目をします。

それが、はっきりと形で現れたのは1877年の西南戦争。

西南戦争は明治政府の挑発に乗ってしまった私学校の反乱。

明治政府から見たら、反逆そのものになります。

この西南戦争の中心人物は西郷隆盛。

西郷隆盛自身は戦争に前向きではなかったとも言われていますが、私学校の幹部らの声に押されて明治政府へ対抗することを決断します。

また、大山綱良も県令の立場を利用して私学校に援助をしていきます。

一方、明治政府の中心人物は大久保利通。

西郷隆盛・大山綱良と大久保利通は、ここで決定的に対立をします。

西南戦争は約半年間続きますが、最期は西郷隆盛が自害をして終結。

西南戦争は明治政府の勝利に終わります。

この時点で、大山綱良はまだ生きています。

しかし、その後明治政府に捕えられ、最期は長崎県で斬首。

享年は53歳でした。

さいごに

桜島



 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、大山格之助(大山綱良)の生涯を中心に、大山格之助(大山綱良)と西郷隆盛・大久保利通の関係を簡単にご紹介をしてきました。

西郷隆盛と大久保利通は薩摩藩の家臣でありながらも、後に薩摩藩や島津久光とは距離を置き、独立独歩の道を歩んでいます。

それに対して、大山格之助(大山綱良)は終生島津久光との強い関係があったようにも思われます。

また、大山格之助(大山綱良)は西郷隆盛や大久保利通よりも年長ではありながらも、結果的には西郷隆盛や大久保利通に大きく運命を動かされた。

そのような人物のようにも見受けられます。

大山格之助(大山綱良)。

本当はどのような人物だったのでしょうか。


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