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大久保利通の名言と意味などをご紹介します

大久保利通(おおくぼとしみち)とは

この記事では、大久保利通の名言とその意味についてご紹介をしていきます。

まずは大久保利通について簡単にご案内し、その後、大久保利通の名言と意味についてご紹介をします。

大久保利通は、1830年に生まれ、1878年に亡くなります。

大久保利通が生まれたのは薩摩国。

同郷の西郷隆盛は薩摩藩主である島津斉彬に見いだされましたが、大久保利通は島津斉彬が亡くなった後の島津久光の元で頭角を現していきます。

時は幕末の動乱期。

活動の時期や場所は西郷隆盛とは異なるものの、倒幕に尽力をした大久保利通は西郷隆盛、長州の木戸孝允とともに維新3傑の一人に数えられるようになります。

明治維新を迎えるまでの大久保利通と西郷隆盛の目的は一致していましたが、明治政府になってからはむしろぶつかることが多くなります。

西郷隆盛は、1877年に西南戦争で明治政府と対立。

明治政府の中で権力を握っていた大久保利通とは決定的な敵対関係に陥ります。

西南戦争の結果は明治政府の勝利に終り、西郷隆盛もこの戦いでその生涯を閉じます。

しかし、大久保利通も1878年には不平士族により暗殺。

西郷隆盛の後を追うように、波乱万丈の生涯を閉じています。

それでは、大久保利通の名言とその意味をご紹介していきます。

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大久保利通の名言

それでは、大久保利通の名言の中でも代表的なものをご紹介します。

「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず。」

これは、1871年(明治4年)7月12日のものです。

この言葉は大久保利通の日記に見られるもので、厳密には名言とは言えないかもしれませんが、有名な言葉なのでご紹介をします。

この言葉の時代背景としては、廃藩置県があります。

江戸時代までの幕藩体制をそのまま維持していたのでは欧米列強に対抗することができない。列強に対抗するためには、より中央集権的な国家を作る必要がある。

そのため藩を廃止して、県を新たに設置するというのが廃藩置県です。

廃藩置県は江戸時代までの藩や、藩の領主である大名などの存在を否定するもので、強硬に実施すれば大きな抵抗を受ける可能性がありました。

この廃藩置県に関しては、大久保利通は明治政府の中で西郷隆盛や木戸孝允などと打合せを重ねてきました。

実際には3人の意見は三様。

つまり、細かな部分では3人の意見が合わなかったが、これ以上、議論を続けていたのでは機会を逃してしまう。

機会を逸してしまうと、一番大切な廃藩置県の計画自体が駄目になってしまう。

そこで、細かい意見の相違は気にしないで、廃藩置県を思い切ってやってみるべきだというのが、この言葉の意味と考えられています。

廃藩置県は歴史の教科書にも載っているような重要なできごとです。その歴史的事件の背景をこの言葉によって知ることができる。

日記ではありますが、まさに大久保利通の名言と言っても差し支えないように思われます。

なお、大久保利通の名言としては、これ以外に次のようなものが知られていますが、その意味は読んだとおりなので、くわしい説明は割愛をさせていただきます。

「過ぎたるは及ばざるにしかず」

「彼は彼、我は我でいこうよ」

「この難を逃げ候こと本懐にあらず」

もっとも、

「過ぎたるは及ばざるにしかず」は、大久保利通のバランス感覚、

「彼は彼、我は我でいこうよ」は、大久保利通の精神的な自立、

「この難を逃げ候こと本懐にあらず」は、大久保利通の果断な判断力、

このあたりを、うかがい知ることができるような気がします。

明治政府の中で大久保利通が中心的役割を担っていたのが、当然のようにも思える名言の数々です。

大久保利通の座右の銘


 

 

 

 

 

 

名言ではありませんが、大久保利通の座右の銘を2つご紹介をさせていただきます。

座右の銘1 「為政清明」(いせいせいめい)

政治を行う者は、清らかでなければならないという意味。

座右の銘2 「堅忍不抜」(けんにんふばつ)

目的を達成するためには、辛いことがあっても耐え忍んで心を動かさないという意味。

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大久保利通の西郷隆盛に対する名言

鹿児島で西南戦争が起こった時、東京にいた大久保利通は西郷隆盛は西南戦争に加担していないと信じていました。

西南戦争の中心に西郷隆盛がいることを知った大久保利通は、鹿児島の西郷隆盛に会うことを願っていました。

大久保利通の鹿児島行きは、殺されてしまう可能性がある事から結局は許可されることはありませんでした。

西南戦争は西郷隆盛の死によって終結をしますが、西郷隆盛の死を知った大久保利通は次の2つの言葉を発しています。

「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が。」

「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない。」

大久保利通と西郷隆盛は敵対してその関係を終了しますが、大久保利通の西郷隆盛に対する思いは決して憎しみではなかったことが、この2つの言葉から感じ取ることができます。

まとめ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、大久保利通の名言と意味を中心にご紹介をしてきました。

大久保利通の名言から推察される大久保利通は、慎重ではありながらも果断に物事を決めることができるポジティブな性格。

大久保利通の座右の銘からは、政治に対しては自らを厳しく律する姿勢。

大久保利通の西郷隆盛に対する名言からは、西郷隆盛に対する変わらぬ思いが伝わってきます。

大久保利通と西郷隆盛と木戸孝允は維新3傑にあげられています。

そのことは間違いないとしても、明治政府になっても、その勢いを失わなかったのは大久保利通のみ。

木戸孝允は、病気がちで明治政府の中では力を発揮できなかった。

西郷隆盛は、明治政府と対立することが多かった。

明治政府は大久保利通を中心に作られていったといっても過言ではないかもしれません。

大久保利通は西南戦争の翌年に暗殺をされて、その生涯を閉じています。

もちろん、大久保利通のとった政策がすべて正しいわけでもなかったでしょうが、大久保利通が暗殺されなかったならば、その後の日本は変わった形になっていたかもしれないですね。


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