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羽柴四天王とは宮田光次・神子田正治・尾藤知宣・戸田勝隆

はじめに

この記事では、羽柴四天王についてご案内をしていきます。

羽柴四天王の出典とは。

羽柴四天王にはどのような人物が入っているのか。

羽柴四天王にあげられたのはどのような武将なのか。

羽柴四天王には何か共通点があるのか。

そして、なぜ豊臣四天王ではなく、羽柴四天王なのか。

このあたりをお伝えしたいと考えています。

羽柴四天王の出典とは

羽柴四天王に関する記述が確認できるのは、山鹿素行が書いた「武家事紀」です。

山鹿素行は、1622年に生まれ、1685年に亡くなります。山鹿素行は豊臣家滅亡後の江戸時代初期を生きた人物になります。

山鹿素行は軍学者として有名で山鹿流兵法を編み出しています。また、数多くの書物も残しています。

「武家事紀」が書かれたのは、1673年の頃。

「武家事紀」では、主な武家の歴史などについての記述が行われていて、その中に羽柴家の4人の武将の名前を見ることができます。

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羽柴四天王にはどのような人物が入っているの

「武家事紀」には羽柴秀吉の有能な家臣として、次の4人の記述があります。

その4人とは

 

・ 宮田光次

・ 神子田正治

・ 尾藤知宣

・ 戸田勝隆

 

です。

もっとも、「武家事紀」に4人の武将の記述はあっても、羽柴四天王という言葉は使ってはいないようです。

したがって、羽柴四天王という言葉が生まれたのが、「武家事紀」の前の事なのか、あるいは後の事なのか、はっきりとはしていません。

そうしたことを前提に、羽柴四天王について書き進めたいと思います。

羽柴四天王にあげられたのはどのような武将なの

豊臣秀吉像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは羽柴四天王にあげられた武将について、その事績を簡単にご紹介していきます。

羽柴四天王1 宮田光次(みやたみつつぐ)

宮田光次の生年は不詳、亡くなったのは1578年です。

主君である羽柴秀吉が近江国長浜城の主になったのが1573年。宮田光次はその頃から羽柴秀吉に仕えたと考えられています。

宮田光次は羽柴秀吉から250貫の知行を与えられ、合わせて大母衣衆(おおほろしゅう)に任じられています。

※ 母衣衆とは武士の中から選抜されて選ばれた者で、名誉なこととされていました。

その後、羽柴秀吉が中国方面の司令官になるとともに、宮田光次も加増されて5000石になりますが、1578年の三木城攻めで討死をしています。

羽柴四天王2 神子田正治(みこだまさはる)

神子田正治の生年は不詳、亡くなったのは1587年です。

神子田正治は元は織田信長の家臣でしたが、羽柴秀吉に請われて羽柴秀吉が近江国長浜城主になる頃より、羽柴秀吉の家臣になります。

神子田正治は羽柴秀吉から250貫の知行を与えられ、合わせて黄母衣衆(きほろしゅう)に任じられています。

また、その後、羽柴秀吉が中国方面の司令官になるとともに、神子田正治も加増されて5000石になります。

神子田正治は有能な武将でしたが、元は織田信長の家臣。羽柴秀吉のことを馬鹿にする言動が多かったと言われています。

そして、小牧長久手の戦いにおける言動がきっかけで羽柴秀吉により所領を没収され、最期は自死か斬首かははっきりとしていないものの、その首は晒されています。

羽柴四天王3 尾藤知宣(びとうとものぶ)

尾藤知宣の生年は不詳、亡くなったのは1590年です。

尾藤知宣は織田信長の家臣である森長可に仕えていますが、羽柴秀吉が近江国長浜城主になる頃より羽柴秀吉の家臣になります。

与えられた知行は250貫、合わせて黄母衣衆に任じられています。また、羽柴秀吉が中国方面の司令官になるとともに、尾藤知宣も加増されて5000石になります。

しかし、九州征伐で数々の失態があり羽柴秀吉が激怒。その結果、尾藤知宣は所領を没収されて追放されます。

その後、羽柴秀吉の小田原征伐の際に許しを乞おうとしましたが、羽柴秀吉はかえって激怒。結果的に処刑をされたと伝えられています。

羽柴四天王4 戸田勝隆(とだかつたか)

戸田勝隆の生年は不詳、亡くなったのは1594年です。

戸田勝隆は最初から羽柴秀吉に仕え、羽柴秀吉が近江国長浜城主になるとともに、250貫の所領を与えられて黄母衣衆に任じられています。

また、羽柴秀吉が中国方面の司令官になるとともに、戸田勝隆も加増されて5000石になります。

戸田勝隆はその後も順調に出世をし、1587年には伊予国のうち7万石を与えられます。

戸田勝隆が亡くなったのは1594年。豊臣秀吉の行った文禄・慶長の役に際して、帰国の途中に病死をしています。

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羽柴四天王の共通点とは

それでは、羽柴四天王の共通点についていくつか挙げてみます。

・ 羽柴四天王は、羽柴秀吉が近江長浜城主となった時に、それぞれ250貫の知行を与えられている。

・ 羽柴四天王は、それぞれが母衣衆に任じられている。

・ 羽柴四天王は、羽柴秀吉が中国方面に進出するに際して5000石の知行を与えられている。

・ 羽柴四天王は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が亡くなる前に、全員が亡くなっている。

羽柴四天王という呼称があったのかどうかも定かではないと書きましたが、羽柴四天王には共通点が多かったことがわかります。

羽柴四天王は徳川四天王より知名度においてははるかに劣りますが、羽柴四天王という呼称があったとしても不思議ではないように思えます。

さいごに なぜ豊臣四天王ではなく羽柴四天王なの

長浜城



 

 

 

 

 

 

 

 

羽柴四天王の主人は羽柴秀吉。

羽柴秀吉は天下を統一し豊臣秀吉となります。

ならば、羽柴四天王ではなく豊臣四天王とした方がすっきりとしますし、豊臣四天王ならば人選も当然に異なってくるものと思われます。

でも豊臣四天王という呼称は聞いたことがありません。

なぜでしょうか。

それは、羽柴四天王を紹介した山鹿素行の生きた時代にあります。山鹿素行は豊臣家が滅亡した後の江戸時代に生きた人物です。

当時は、徳川家を肯定するために、豊臣家を否定する時代でした。

そのため、羽柴四天王は紹介することはできても、豊臣四天王は紹介することが憚れたと考えられます。

また、豊臣四天王を選ぶとすれば、それは前述の4人。宮田光次、神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆より著名な人物になるはずです。

しかし、豊臣秀吉に見いだされた武将の中には、江戸時代も生き残った大名が多いのも事実。徳川家の世にあって、徳川家に従っている大名を豊臣四天王にする。

さすがにそんなことはできなかったと思われます。

豊臣四天王であれば世の中にもっとその名前が知られたかもしれません。しかし、当時の情勢を考えたら、豊臣四天王の記述をすることは不可能。

そこで、豊臣四天王ではなく羽柴四天王に落ち着いたと考えられます。

この記事では、羽柴四天王について書いてきました。

今後、羽柴四天王が脚光を浴びることはあるのでしょうか。

記事を書き進めながら、ふとそんなことを考えてしまいました。


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