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織田四天王とは柴田勝家と丹羽長秀と滝川一益と明智光秀

織田四天王とは

織田四天王についてご案内をしていきます。

ところで日本の歴史の中でもっとも有名な「四天王」といえば徳川四天王ではないでしょうか。

徳川四天王は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政と四人の武将が確定をしています。

それに対して織田四天王は武将が確定しているわけではないようです。そのため人によって織田四天王として挙げる武将の名前が異なっているという特徴があります。

織田四天王で最も聞かれるのは、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人の武将です。

しかし、この中には羽柴秀吉(豊臣秀吉)は入っていません。

また、当時の織田家の中で知られていた佐久間信盛も入ってはいません。

この記事では柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人を織田四天王としてご案内をしていきます。

また、あわせて羽柴秀吉や佐久間信盛が織田四天王に入っていない理由についても考えていきたいと思います。

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織田四天王1 柴田勝家

織田信長在世中で最も有名な家臣といえば柴田勝家です。柴田勝家を織田四天王から外すという人はほとんどいないように思われます。

柴田勝家は1522年頃に生まれ、1583年に亡くなっています。

主君の織田信長が生まれたのは1534年なので、柴田勝家自身の最初の主君は織田信長ではなくその父の織田信秀でした。

織田信秀の亡き後、柴田勝家の主君となったのは織田信長の弟の織田信行。

当時の織田家にあって、織田信長はうつけ者という評価が一般的であったようで、織田信長と織田信行は反目。織田信行の家老であった柴田勝家も織田信長と敵対します。

この諍いは織田信長の勝利に終り、織田信行も柴田勝家も一命を助けられています。しかし、織田信行は再度織田信長に反旗を翻し、織田信行は織田信長の命により殺害をされています。

このとき、柴田勝家は織田信行を見限り織田信長に従い、その後の柴田勝家は織田信長に終生臣従することになります。

さて、織田信長に臣従した後の柴田勝家ですが、元来の勇猛さと戦上手が織田信長に評価され各地を転戦。

1576年には北陸方面の司令官に任命され、1580年に加賀国を制圧。越後の上杉氏に対峙することになります。また、この頃には織田家の筆頭家老の地位にまで上り詰めています。

柴田勝家の運命が暗転するのは1582年の本能寺の変。

本能寺の変で織田信長が亡くなったことを知った上杉家に猛攻を受け柴田勝家は加賀を撤退。命は助かったものの、その頃にはすでに羽柴秀吉が明智光秀を討ち取っています。

柴田勝家は織田家の筆頭家老としての役割を果たすことができませんでした。

その後、織田家の後継者を選ぶ清州会議でも羽柴秀吉に押し切られて実質的な立場も羽柴秀吉に後れを取り、さらに1583年の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて最期は北ノ庄城で自害をします。

柴田勝家は織田信長に命を助けられ織田家の筆頭家老にもなりますが、織田信長の死とともにその役割を終えたような最期を迎えます。

織田四天王2 丹羽長秀

安土山



 

 

 

 

 

 

 

 

 

丹羽長秀は1535年に生まれ、1585年に亡くなっています。

主君の織田信長が生まれたのは1534年なので、ほとんど同時代を生きた武将といえそうです。

丹羽長秀も最初の主君は織田信秀でしたが、その後は織田信長に臣従。柴田勝家とは異なり織田信長に敵対することはありませんでした。

丹羽長秀も織田信長の命により各地を転戦。1573年には若狭国の統治を任せられますが、これは織田家にとって初めてのこと。丹羽長秀が織田信長から評価をされていたことがわかります。

丹羽長秀の特徴は軍事面だけでなく内政面でも能力があったこと。

この点は武勇で知られた柴田勝家とは異なっているところですが、言い換えれば戦いの場面では柴田勝家よりも一段劣っていたとも言えそうです。

そのため1580年頃には柴田勝家に次ぐ織田家の二番家老のような地位を与えられるものの、柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉のように軍団の司令官のような地位に就くことはありませんでした。

1582年に織田信長が亡くなると、丹羽長秀は織田信長の三男である織田信孝と共に羽柴軍に合流。織田信長の仇うちに一応は参加しています。

また、その後の清州会議でも羽柴秀吉に同調。そのためか羽柴秀吉に若狭、越前、加賀の一部の領有を認められ大大名となります。

しかし、その直後の1585年に病死(胃がん)で亡くなります。丹羽長秀の死因は病死というのが一般的ですが、一説には羽柴秀吉の横暴ぶりに怒り切腹をしたという噂もあります。

丹羽長秀は織田家の二番家老ですが、柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉のように軍団の司令官の地位に就くことはできなかった。

こうした背景から丹羽長秀を織田四天王の一人にあげるという意見もあれば、外すという意見もあるようです。

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織田四天王3 滝川一益

滝川一益は1525年に生まれ、1586年に亡くなっています。

滝川一益は織田家の譜代ではありません。このあたりは柴田勝家や丹羽長秀とは異なっています。

滝川一益の前半生ははっきりとしていません。滝川一益は鉄砲の名人として知られ、その腕を見込んだ織田信長が家臣に組み入れたともされています。

滝川一益が織田信長の家臣になったのは1555年頃。その後、各地を転戦し武功をあげていきます。

織田信長の晩年に滝川一益が担当をしたのは主に関東・甲信方面。特に1582年の甲州征伐では武田勝頼を自害に追い込み、戦国大名の武田氏を滅亡させるという武功をあげています。

そうした戦功もあり武田氏滅亡直後、滝川一益は関東管領にも任じられています。

しかし滝川一益が輝いていたのはこのあたりまで。

本能寺の変を知った北条氏に攻めたてられ、滝川一益は本国の伊勢に逃れることはできたものの、清州会議に参加することもできませんでした。

そのため、織田家における滝川一益の重要性は大きく失われていきます。

その後の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に与するも敗戦。さらに翌年の小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉に従うも武功をあげられず、1586年、不遇のうちに病死をします。

滝川一益を織田四天王に加えることについての異論は少ないようです。しかし譜代でもない滝川一益が輝いていた期間はほんの僅か。

柴田勝家や丹羽長秀と同様に本能寺の変が滝川一益の運命を大きく変えてしまったようです。

織田四天王4 明智光秀

明智光秀像



 

 

 

 

 

 

 

 

織田四天王の最後にご紹介をするのが明智光秀です。

明智光秀を織田四天王の一人とすることについての異論は少ないようですが、明智光秀は織田四天王の中でも特異な存在。

明智光秀は主君である織田信長を死に追いやったばかりでなく、織田四天王の他の3人の運命をも大きく狂わせています。

明智光秀は1528年に生まれ、1582年に亡くなります。明智光秀の前半生はわからないことが多いようです。

明智光秀が世の中に登場をするのは足利義昭に仕えたころから。足利義昭が織田信長の助けを得て15代将軍になったことをきっかけとして歴史の表舞台にでてきます。

明智光秀は足利義昭に仕えていましたが、足利義昭と織田信長が反目するようになったころから織田信長に臣従。織田家の家臣として頭角を現してきます。

明智光秀が足利義昭の元を離れ、織田信長に臣従したのが1573年の頃。

1575年には九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられるなど、織田信長の信任は厚かったものと推測されます。

明智光秀の担当区域は主に近畿地方。丹波国、丹後国を勢力下においた明智光秀は主君の織田信長からも絶賛されたようです。

しかし現在でもはっきりとした理由は分からないながらも、明智光秀は1582年6月2日に織田信長を本能寺の変で討ち果たします。

明智光秀は謀叛人となり、6月13日には羽柴秀吉と激突。この山崎合戦はほんの数時間で終わり、敗れた明智光秀は本拠地に戻る途中、討ち果たされてしまいます。

明智光秀は主君である織田信長を討ち取った。だから織田四天王に入れるべきではないという考え方もあるかもしれません。

ただ、織田信長在世中は織田家中にあってもっとも活躍していたのは明智光秀。そのようなことから明智光秀は織田四天王の一人として数えられているようです。

さいごに 佐久間信盛と羽柴秀吉

豊臣秀吉像



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

織田四天王に加えるべき武将として登場するのが佐久間信盛と羽柴秀吉です。

しかし佐久間信盛と羽柴秀吉を織田四天王に加えるという意見はそれほど多くはないようです。

佐久間信盛は1528年ころに生まれ、1582年に亡くなります。

佐久間信盛の最初の主君は織田信秀。その後、織田信長の家臣となり、織田信長と織田信行の争いでも一貫して織田信長に従っています。

佐久間信盛はその後も戦場で活躍。一時期は柴田勝家と並ぶ重臣として織田家の中で重きをなしていました。

しかし、1580年には突如織田信長より19もの瑕疵を申し渡され追放。1582年、本能寺の変が起こる少し前に紀伊国で亡くなっています。

佐久間信盛は譜代の臣でそれなりの戦功があり、織田家の重臣として君臨していた。普通に考えれば織田四天王の一人にあげられるべき武将です。

しかし佐久間信盛が織田四天王に入ってこないのは、織田信長の逆鱗に触れ追放されてしまったから。

どうやらこれに尽きるようです。

一方、羽柴秀吉です。

羽柴秀吉についての履歴は省略させていただきますが、織田信長の晩年、羽柴秀吉は中国地方の司令官たる地位でした。

実力からいえば当時の織田家にあっては明智光秀と双璧をなす人物でした。しかし、一般的に羽柴秀吉は織田四天王の一人には入ってきません。

その理由は恐らくですが、結果的に羽柴秀吉は織田信長を追い越すほどの実績を作ったからではないかと思われます。

羽柴秀吉は織田信長がなしえなかった天下統一を成し遂げ豊臣秀吉となります。

実績も官位も織田信長をしのいだ羽柴秀吉を織田四天王とすることに違和感があったのではないかと思われます。

もっとも羽柴秀吉は織田四天王には入ってこないものの、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀とともに織田五大将の一人には入ってくるようです。

このあたりは何とも不思議なところです。

この記事では織田四天王についてご案内をさせていただきました。

徳川四天王と比較したら織田四天王の認知度は決して高くはありませんし、織田四天王については必ずしも4人が確定しているわけでもないようです。

これは天下を取る途中で横死した織田信長と、天下を盤石なものとして江戸幕府を作り上げた徳川家康の実績の違いによるものなのでしょうか。


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