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明治維新三傑は木戸孝允と西郷隆盛と大久保利通

明治維新三傑は木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通

日本の歴史の中でも、もっとも大きな変革としてあげられる明治維新。

明治維新は権力を持っていた人ではなく、元々は身分がそれほど高くはない、いわゆる志士たちの活動の賜物です。

その中で、とりわけ原動力となったのが明治維新の三傑。

そして明治維新の三傑として名前が挙がるのは、木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通です。

この記事では、明治維新三傑といわれた木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の幕末までと明治維新後の人生を分けて、簡単にご紹介していきたいと思います。

明治維新の三傑と讃えられながらも、幕末までと明治維新後の境遇は木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通はそれぞれで大きく異なっている。

この記事を書いていて、そのことに改めて驚かされています。

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明治維新三傑1 木戸孝允(きどたかよし)


 

 

 

 

 

 

 

木戸孝允は江戸時代の長州藩出身で1833年に生まれ、1877年に亡くなります。

木戸孝允は明治維新を迎えるころまでは桂小五郎の名前で活躍。木戸孝允よりも桂小五郎の名前の方が知られているかもしれません。

木戸孝允は1852年に剣術修行のため江戸へ向かいます。そして神道無念流を学び免許皆伝。木戸孝允の名前がまず世に現れたのは剣の達人としてであったようです。

その後、ペリーの来航や吉田松陰の知己を得たことで、木戸孝允は段々と政治的活動に注力するようになります。

このときの木戸孝允の考えは開国攘夷にあったようで、長州藩の藩論もこの考えに沿ったものになっていきます。

しかし、この意見に従わない人も当然でてきます。

たとえば同じ長州藩の久坂玄瑞は、関門海峡を通過する外国艦船に攻撃を仕掛けます。

また、八月十八日の政変や池田屋事件で力をそぎ落とされた長州藩は、京都で蛤御門の変を引き起こし、さらに苦境に立たされます。

木戸孝允はこのとき京都にいましたが、長州藩が幕府の敵とみなされていたため潜伏生活を余儀なくされます。

木戸孝允は剣の達人です。しかし追手は新選組など人数も多く剣術にも優れています。木戸孝允は剣で敵に向かうことなく、逃げることに徹していたようです。

そのため木戸孝允は当時の桂小五郎の名前から「逃げの小五郎」と言われていたとも伝えられています。

その後、幕府による第1次長州征伐が行われます。長州藩は幕府に恭順の意志を示すため三家老を切腹させ、さらにそれ以外の家臣の粛清に乗り出します。

まさに長州藩は内紛状態に陥っていましたが、幕府の恭順に反対する高杉晋作が決起。さらには木戸孝允がその統率者として迎えられます。

木戸孝允がまず手掛けたのが現状の打開。

木戸孝允は坂本龍馬の仲介により薩摩の西郷隆盛と会談。薩長同盟の締結に成功します。

当時、薩摩と長州は犬猿の仲と言われていたので、この同盟が外部に漏れることはありませんでした。

長州は薩長同盟により薩摩の名前を借りて外国人から兵器を購入。軍備の近代化を図ることに成功します。

幕府は第1次長州征伐をしたものの長州の動向についは懐疑的でした。そこで起こったのが第2次長州征伐。

しかし軍としての近代化に成功した長州、さらには薩摩も長州征伐に反対したことなどから、第2次長州征伐は長州の勝利。

世の中の流れが幕府から薩摩や長州に向き、明治維新を迎えることになります。

明治維新後の木戸孝允は新政府の中でも重責を担います。

たとえば廃藩置県などは木戸孝允の力に負うところが大きかったようです。また、四民平等や三権分立などにも尽力したと伝えられています。

しかし、あまりにも木戸孝允に対する期待が大きかったこと。あるいは明治新政府内での意見の相違などがたくさんにあったこと。

そうしたストレスがたまり、明治維新を迎えてからの木戸孝允は精神的に鬱屈したものがあったようです。

そのため木戸孝允は新政府に対して中に入ることもあれば、外に出て批判をする。このあたりは新政府でも一貫して国の舵取りをしようとした大久保利通とは明らかに異なる動きでした。

明治維新三傑の中で、木戸孝允と大久保利通は意見の相違はあっても互いに尊敬しあう立場だったようです。

それに対して木戸孝允と西郷隆盛は相いれない。木戸孝允は西郷隆盛に対して批判的であったようです。

1577年、西郷隆盛が引き起こしたのが西南戦争。

西南戦争にも木戸孝允は批判的で、西南戦争が起こった当初は征討軍を率いたいとの希望もありました。

もっともこのころから病状が悪化。最期は「西郷、いい加減にしないか」との言葉を残して亡くなったとされています。

木戸孝允は明治維新三傑の一人に数えられています。

それは幕末の長州藩の志士たちの多くが明治維新を迎えるまでに命を落としてしまったことも要因の一つとしてあげられます。

たとえば、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作など。

明治維新まで生きていたならば世の中は違う形になっていたはず。そう思われる人が多く亡くなってしまっていました。

それが長州藩の志士たちの大きな特徴です。明治維新を迎えるまでの木戸孝允は長州藩にとって唯一無二の存在だったのかもしれません。

明治維新を迎えてからの木戸孝允は少しずつ輝きを失っていきます。

それまでは木戸孝允にとっての世界は長州藩でしたが、明治維新後はそれが日本に代わります。

明治維新前以上に百家争鳴。また派閥の動きも露骨になってきて繊細な木戸孝允には耐えられなかったように思われます。

また、旧長州藩からは伊藤博文など新たな人材も続々と出てきています。

木戸孝允は西郷隆盛などと異なり明治政府を見限るまではしませんでしたが、かといって新政府には常に不満を抱いていた。

そのようにも見受けられます。

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明治維新三傑2 西郷隆盛(さいごうたかもり)


 

 

 

 

 

 

西郷隆盛は江戸時代の薩摩藩出身で1828年に生まれ、1877年に亡くなります。

明治維新三傑の中でももっとも活躍した人物。それが西郷隆盛です。

西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の子として生まれます。

当時の武士の義務といえば剣の技術を磨くことでしたが、少年の頃に腕を怪我してしまってからは剣の道を諦めて学問を重視するようになります。

その後、薩摩藩でお家騒動が起こり、結果として英明を謳われた島津斉彬が藩主になります。

西郷隆盛は低い身分であったものの、攘夷問題について意見書を差し出したところ島津斉彬に見いだされ近習に取り立てられます。

島津斉彬の元で薫陶を受けた西郷隆盛は諸藩の有識者とも面識を得るようになります。

しかし世の中は井伊大老の時代。さらに主君の島津斉彬が急死。

島津斉彬の後の当主は島津斉彬の弟である島津久光の子の島津忠義。ただし、実権は島津斉彬や島津久光の父である島津斉興、さらにその後は島津久光が実権を握るようになります。

英明で知られた島津斉彬の死で西郷隆盛の運命も暗転します。

一言でいえば西郷隆盛は島津久光が大嫌い。島津久光も西郷隆盛に対して冷淡であったと言われています。

そのため西郷隆盛は将来を悲観して自殺を図ったり、遠島に処されたりもします。

遠島については自殺を図った後に1回。許されて薩摩藩の政務に携わったものの、島津久光の意向を無視して独自の行動をしたため、改めて遠島を命じられる。

明治維新前の西郷隆盛にとって、この時期は最悪の時期だったのかもしれません。

その後、西郷隆盛は上洛をします。

島津久光と距離をおくことで、西郷隆盛は自分の意志で行動をすることが多くなります。

この時期の薩摩は長州藩とは犬猿の仲。禁門の変でも第1次長州征伐でも薩摩藩は長州藩に敵対の立場をとります。

しかし幕府に政権を担当する能力がないことを知った西郷隆盛は、少しずつ幕府と距離を置くようになります。

そして締結されたのが薩長同盟。薩長同盟以降は薩摩や長州を中心に倒幕に突き進むことになります。

この時期の西郷隆盛の活躍は見事なものですが、とりわけ有名なのは江戸城明け渡しにおける勝海舟との会談。

勝海舟との会談で江戸無血開城の道が開かれ、江戸城下が火の海になることを避けることができています。

西郷隆盛は明治維新に際して薩摩藩だけでなく、いわゆる雄藩との関わり合いを積極的に持っています。また敵である幕府とも交渉をしています。

この点は明治維新三傑の中でもとりわけ際立っていて、西郷隆盛は明治維新三傑の中でももっとも重要な役割を果たしたといえるでしょう。

しかし、明治維新後の西郷隆盛は、むしろ新政府にとって邪魔な存在になっていきます。

特に1568年の政変では、征韓論に敗れた西郷隆盛たちは新政府を離れて下野。西郷隆盛は薩摩に戻り隠居生活を送るようになります。

薩摩に戻って隠棲生活を送っていた西郷隆盛ですが、西郷隆盛には抜きんでた人望がありました。西郷隆盛を旧薩摩藩士が放っておくはずはありません。

また旧薩摩藩士は新政府のやり方に大きな不満を持っていました。そうした状況で起こったのが1877年の西南戦争。

西南戦争で西郷隆盛は旧薩摩藩士の首魁に祭り上げられます。新政府から見たらこの動きは反乱。 新政府にとって西郷隆盛は反乱軍の首魁となってしまいます。

西南戦争は約半年続きます。最終的に反乱軍は政府軍に追い詰められ、西郷隆盛自身も薩摩の城山で命を落とすことになります。

明治維新を迎えるまでの西郷隆盛の活躍は明治維新三傑の中で随一でした。

しかし、西郷隆盛自身は理論よりも感情で動く人であったためでしょうか。

新政府のやり方に異論をはさむことも多く、その存在感があまりにも大きいために新政府も西郷隆盛の扱いに苦慮していた面が見受けられます。

征韓論を契機に西郷隆盛は新政府を離れますが、今度は旧薩摩藩士が西郷隆盛を慕って終結。新政府から見たら反政府活動の中心となってしまい非業の死を遂げています。

明治維新三傑3 大久保利通(おおくぼとしみち)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

大久保利通は江戸時代の薩摩藩出身で1830年に生まれ、1878年に亡くなります。

明治維新三傑の中で西郷隆盛と大久保利通は薩摩藩の出身。ところが鹿児島県では西郷隆盛は人気が高いのに対して、大久保利通は今でも不人気だと言われています。

明治維新前だけでなくその後のことを総合的に考えると大久保利通の功績は明治維新三傑の中でも抜きんでています。

それでもこれだけ人気に差が出るのは、西郷隆盛は感情で動き多くの人の共感を得ているのに対して、大久保利通は理論で動き、時として怜悧である。

こうした個性の差が人気の差としてでているのかもしれません。

大久保利通は薩摩藩の下級武士の子として生まれました。西郷隆盛よりは2歳の年下ですが、近所に住んでいたため2人は幼馴染であったと言われています。

大久保利通と西郷隆盛は同時期に薩摩藩の中で仕事をするようになります。

ただし、西郷隆盛が島津久光を嫌い失脚をするのに対して、大久保利通はむしろ島津久光に接近。 大久保利通は島津久光に取り入ることで出世をしていきます。

島津久光の側近となった大久保利通は、島津久光の意向を背景に政治的な動きを果たしていきます。

西郷隆盛がより外部との接近を図り倒幕活動を進めたのに対して、大久保利通は薩摩藩内をまとめ倒幕活動をした。

そのように見受けられます。

長州藩の木戸孝允は、長州藩だけでなく外部に対しても長州藩の代表的な立場で明治維新を推進した。

薩摩藩の西郷隆盛は、雄藩と交わり明治維新を推進しただけでなく、敵である幕府ともさまざまな交渉をした。

薩摩藩の大久保利通は、主に薩摩藩をまとめ上げ明治維新を推進した。

明治維新三傑はそれぞれに重要な役割を果たしています。一人でも欠けていたら明治維新は違う形になっていたと思われます。

ただあえて明治維新の三傑に順位をつけるとしたら、功績の第一は西郷隆盛、第二は木戸孝允、第三が大久保利通ではなかったでしょうか。

もっとも明治維新後はこの順位は明らかに異なってきます。

明治維新後、木戸孝允は新政府を離れることはなかったものの、基本的には距離を置いて批判的でもあった。

西郷隆盛は新政府に不満を抱き、最終的には新政府から見たら反乱を起こした。

対して大久保利通は新政府の中心人物として、さまざまな人とぶつかり合いながらも、明治政府のために尽力をした。

大久保利通の考えたことが人々の望むことであったかどうかは別として、大久保利通がいなければ明治政府はもっと脆弱なものとなっていた。

征韓論の後、日本全国でいくつもの反乱がおこっていますが、大久保利通の確固たる信念がなければ明治政府は倒壊した可能性もあったのではないでしょうか。

明治維新後、大久保利通は新政府にあって学制の改革、地租改正、徴兵制度を推し進め、殖産興業を起こして富国強兵策に積極的に取り組みます。

こうした行動は権力を持っていなければできないもの。実際、大久保利通は政敵を破り、西南戦争を起こした西郷隆盛などに対しても怜悧な対応をしています。

大久保利通の心中はわかりませんが、明治政府を安定させるためには何でもした、それが大久保利通の基本姿勢ではなかったでしょうか。

そんな大久保利通ですから多くの人々の反感を買います。特に刀を取り上げられた江戸時代の武士の憎しみは相当に強かったようです。

そして、西南戦争が終結した翌年、1878年に大久保利通は石川県士族と島根県士族に暗殺されてその生涯を閉じています。

さいごに

この記事では、明治維新三傑と言われる木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通について簡単にご案内をしてきました。

明治維新を迎えるまでの木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の果たした役割は絶大です。

しかし明治維新後はその活動ぶりは大きく異なっています。

また、明治維新三傑の最期はそれぞれに異なっています。

木戸孝允は精神的に病み、最期は病死をしています。

西郷隆盛は反乱軍の首謀者として最期を迎えています。

大久保利通の最期は暗殺です。

特に木戸孝允と西郷隆盛は現代でいう燃え尽き症候群だったのでしょうか。

明治維新の三傑。

明治維新を迎えるまでと、明治維新後の落差が際立っていること。そして3人とも明治維新後約10年の間に最期を迎えていることに改めて驚かされています。


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