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中野直由と新野左馬助が井伊直虎を誕生させた

中野直由と新野左馬助が井伊直虎を誕生させた

この記事では中野直由(なかのなおよし)と新野左馬助(にいのさまのすけ 新野親矩)についてお伝えをしていきます。

中野直由と新野左馬助は2人とも井伊氏の家臣という共通点があります。

また、もう一つの共通点を探すと中野直由と新野左馬助は亡くなった日が同じです。

中野直由と新野左馬助が同日に亡くなった。そして、この出来事が戦国時代おんな城主と言われた井伊直虎を誕生させた直接のきっかけとなっています。

まずは中野直由と新野左馬助。それぞれの井伊氏との関係について見ていこうと思います。

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中野直由(なかのなおよし)と井伊氏との関係とは

中野直由の生年は不詳、亡くなったのは1564年10月29日になります。

中野直由は井伊家の家臣ですが、もう少し詳しく見ていくと中野氏は井伊氏の分家。由緒ある井伊氏にとって中野直由は重臣であるとともに一族。そんな関係にあったようです。

中野直由が仕えたのは井伊直盛です。もっとも当時の井伊氏は今川氏に従属する立場。今川氏の命令で井伊氏は動かざるを得ず、戦の時には今川氏の先鋒を任される立場でした。

井伊直盛の運命が一変したのは1560年の桶狭間の戦い。

桶狭間の戦いは今川義元が討死をした戦いで知られていますが、この戦いに従軍した井伊直盛も命を落としてしまいます。

ただ今川義元とは異なり、井伊直盛には遺言を残す時間がありました。

井伊直盛がしなければいけなかったのは後継者の指名。井伊直盛の遺言で後継者は養子の井伊直親と定められています。

さらに井伊直盛の遺言は続きます。

当時の井伊氏の当主は井伊直盛であることは間違いないものの、大きな権力を持ち井伊氏を脅かす重臣がいました。

それが小野政次です。

小野政次は井伊氏にとって代わろうとする野望がありました。また、井伊氏の後継者に指名された井伊直親と小野政次は不仲とも言われていました。

井伊直盛が亡くなった時、井伊直親は25歳の頃。後継者として年齢的には問題はありませんが、権謀術策に優れた小野政次には対抗する術もありません。

そこで井伊直盛は井伊直親を後継者に指名するとともに、一族の重臣である中野直由を井伊直親の後見人に指名をします。

さて、井伊氏の当主となった井伊直親ですが、1563年には小野政次の讒言で今川氏によって殺されてしまいます。

井伊直親が井伊氏の当主となっていたのは僅か2~3年、享年29歳と伝えられています。中野直由を後見にしたものの、結局、井伊直親は小野政次の讒言により亡くなっています。

井伊直親の後継となったのは、井伊直盛にとっては祖父、井伊直親にとっては曾祖父にあたる井伊直平です。

井伊直平は既に隠居の身分でしたが、井伊氏に男子の後継者がいなかったため、再登板になりました。

しかし井伊直平も間もなく敵の手によって毒殺をされてしまいます。

井伊直親はすでに亡くなって、井伊直平が再登板をしました。この間、中野直由は引き続き後見の任に当たっています。

また井伊直平が亡くなって井伊氏の当主がいなくなっても、中野直由は政務を見ています。

この当時の状況を改めて振り返ると、桶狭間の戦い後、主筋である今川氏を継いだのは今川義元の嫡男である今川氏真(いまがわうじざね)でした。

ただ今川氏真は大国を運営できるだけの能力はなく、実際に桶狭間の戦い以降は離反する家臣が相次いでいました。

その中の一人が引馬城(後の浜松城)の城主飯尾連龍(いいおつらたつ)です。

飯尾連龍の離反に激怒した今川氏真は井伊氏に引馬城攻撃を命じます。

そしてこの戦いに参加した中野直由は討死をしてしまいます。

それが1564年10月29日です。

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新野左馬助(にいのさまのすけ)と井伊氏との関係とは

新野左馬助の生年は不詳、亡くなったのは1564年10月29日になります。

新野氏は元々今川氏の家臣でしたが、新野左馬助の妹が井伊直盛と結婚したことで、井伊氏とも縁戚関係になっています。

新野左馬助は今川家の家臣でありながら、妹と井伊直盛の婚姻を機に井伊氏の本拠地である井伊谷に移ります。

この移住は今川氏にとっては井伊氏の監視役、目付として送り込んだということになります。もっとも新野左馬助自身は今川氏ではなく井伊氏寄りの考えを持つようになったと言われています。

新野左馬助と井伊氏との関係を語るうえで見逃すことのできない事件が発生します。

中野直由のところで井伊直親は小野政次の讒言により亡くなったと記述しました。

井伊直親が亡くなった時、井伊直親には1人の男児がいました。幼名虎松(後の井伊直政)です。

井伊直親は今川氏真に謀叛の疑いをかけられ討ち果たされました。今川氏から見たら謀叛人井伊直親の遺児である虎松を生かしておくことはできません。

実際、今川氏から討手が差し向けられましたが、新野左馬助の必死の懇願で虎松は命を助けられています。

新野左馬助がいなければ虎松は殺されていたはずですし、虎松が殺されてしまったら後の井伊直政も誕生しなかった。

このときが井伊氏にとって最大の危急存亡の時と言われていますが、この危機を救った新野左馬助は井伊氏にとって最大の功労者であると言えそうです。

新野左馬助も中野直由と同じように引馬城攻撃に参加をしています。そして中野直由と同様、新野左馬助もこの戦いで命を落としています。

それが1564年10月29日。中野直由も新野左馬助も同日にその生涯を閉じています。

 

中野直由と新野左馬助の死が井伊直虎を誕生させた

浜松城



 

 

 

 

 

 

 

 

1563年、井伊直平が亡くなったことで井伊氏の当主は不在になりました。

では、この時点で井伊氏の後継になれる男子は誰だったのでしょうか。

可能性を考えると中野直由と新野左馬助に可能性がありました。

中野直由は元より井伊氏の一族。

新野左馬助は今川氏の家臣だったとはいえ、後の井伊直政の叔父にあたる人物です。

しかし、中野直由と新野左馬助は同日に討死をしてしまい、両人の死をもって井伊氏には後継となるべき男子はまったくいなくなってしまいました。

そこで取られた策が井伊直虎を井伊氏の後継とするものです。

井伊直虎は井伊直盛の一人娘。当時は僧籍にあり次郎法師と名乗っていました。

後継者となるべき男子をすべて失ってしまった井伊氏は苦肉の策として次郎法師を還俗させます。

還俗して後の名前が井伊直虎。

井伊直虎は女性でありながらも一時期の井伊氏の舵取りを担ったということで「おんな城主」と言われています。

井伊直虎は井伊氏の後継者となりました。しかし、井伊直虎は能動的に井伊氏の後継になろうとしたわけではありません。

井伊氏に男子の後継者がいなくなってしまったから、井伊直虎は後継にならざるを得なかった。いわば受動的な立場で井伊氏の舵取りをすることになったようです。

そして、その直接の原因が中野直由と新野左馬助の死。

中野直由と新野左馬助がすすんで討死をしたいと思ったわけではありません。

しかし、中野直由と新野左馬助の死が井伊直虎を誕生させた。

どうやらこのことは間違いがないようです。


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